fc2ブログ

吉本貞昭『知られざる日本国憲法の正体』を読んで――日本人に対する偏見・無知から生まれた「日本国憲法」、96条は改憲させないため作られた、その他

吉本貞昭『知られざる日本国憲法の正体』(ハート出版、2014)を読んだ。「日本国憲法」成立過程史を記した本だと思って読んだが、成立過程史であるとともに、「日本国憲法」改正論の本であった。成立過程史としても、改正論としても改憲派の主流が展開する論理を展開している本だと思った。

とはいっても、改憲派の成立過程史と改正論を1セットでまとまった形で示した本はあまりないように思う。これが初めての本かもしれない。本書の意義は何よりもそういうところにあるのであろう。

この本の書評は、別ブログ<「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書〉に掲載したが、本ブログとも関連するので、本ブログ用に一部削除、一部増補の上、転載することにする。

ちなみに、増補部分は、「96条は改憲させないため作られた」という小見出し部分である。

以下、目次を記したうえで、本書を読み、勉強になったことや 感じたことを記していきたい。

 

目次

 

はじめに

第一部 知られざる対日占領政策の舞台裏

第一章     アメリカの対占領政策はこうして始まった

第一節 アメリカの対占領政策の意図はどこにあったのか         14

第二節 マッカーサーはどのように日本を改造しようとしたのか

第二章 アメリカはなぜ「憲法改正」を行ったのか

第一節 アメリカはどのように日本を理解していたのか

第二節 アメリカの対日占領政策の背景には何があったのか

 

第二部 知られざる「日本国憲法」誕生の舞台裏

第三章 「帝国憲法」の改正はこうして始まった

第一節「帝国憲法」の改正はどのように行われたのか

第二節 「マッカーサー草案」はどのように作成されたのか

第三節「マッカーサー草案」はどのように押し付けられたのか

第四節 「日本国憲法」はどのように作成されたのか  

第四章 枢密院・帝国議会での憲法審議はこうして始まった

第一節 枢密院ではどのように憲法を審議したのか 

第二節 衆議院ではどのように憲法を審議したのか 

第三節 貴族院ではどのように憲法を審議したのか  

 

第三部 知られざる「憲法問題」検閲の舞台裏            

第五章 占領軍の検閲はこうして始まった              266

第一節 憲法問題の検閲はどの程度行われたのか

第二節 憲法関連の出版物に対する検閲の実態

第六章 占領中に「憲法問題」はなぜ自由に議論できたのか       279頁

第一節 六十九年前にあった憲法大論争

 第二節 出版物で「日本国憲法」の批判はなぜ自由にできたのか  

第七章 占領中に「日本国憲法」誕生の秘密はこうして発表された

第一節 占領中に民政局が公表した「日本国憲法」誕生の秘密

第二節 占領中に民政局はなぜ「日本国憲法」誕生の秘密を公表したのか

占領中に「日本国憲法」の英訳文はなぜ六法全書に掲載されたのか

 

第四部 知られざる「日本国憲法」の正体   

第八章 占領軍が押し付けた「日本国憲法」の正体

第一節 「日本国憲法」は占領憲法である

第二節 世界が語る「日本国憲法」の正体

第九章 占領軍が押し付けた第9条の正体

第一節 第九条と第一条はなぜ作られたのか

第二節 第九条の発想はどこから来ているのか

第三節 対日占領政策の転換と日本再軍備の構想  

第十章 「日本国憲法」はなぜ改正しなければならないのか

第一節 「ポツダム宣言」は憲法改正を要求していたのか          370

第二節 「マッカーサー草案」を作成したニュー・ディーラーたち

第三節 「日本国憲法」に秘められた政治思想とは何か

第四節 戦後、憲法改正の議論はこうして始まった  

第五節 「日本国憲法」のどこを改正しなければならないのか 

終わりに

 

 

ウィークジャパン政策

まず順番に、勉強になった点や面白いと感じたところを何点か指摘していこう。まずは、第二章の第二節「アメリカの対日占領政策の背景には何があったのか」である。吉本氏は、まず、「アメリカの対日占領政策に影響を与えたウイークジャパン政策」の小見出し部分で、

アメリカには民主党のルーズベルトらのウイークジャパン政策と、共和党のフーバーらのストロングジャパン政策とが対立していたとする。

次いで、「アメリカの対日占領政策に影響を与えたソ連のスパイ」の部分では、対日占領政策が、ソ連のスパイであったハーバート・ノーマンたちの大きな影響を受けていたとする。ノーマンは、当然に、最も強力にウイークジャパン政策を推進した。

 

ノーマンという人物

ノーマンは「日本国憲法」成立に於てカギとなる人物なので、本書により、その来歴をみておこう。ノーマンは、1910年、在日カナダ人宣教師の子供として生まれた。カナダに移住した後、トロント大学とケンブリッジ大学で歴史学を学び、ケンブリッジ大学時代に共産党に入党した。1941年には再び来日し、東京のカナダ公使館に語学官として働き、近代日本史の勉強を深めるとともに、軽井沢で羽仁五郎に明治維新史を学んだという。

1940?、ノーマンは、ハーバード大学燕京研究所に『日本における近代国家の成立』を博士論文として提出した。この中で、ノーマンは、次のように日本は「一貫して専制的な軍国主義国家」だから中国で戦争をしていると述べた。

「日本が中国大陸で戦争をしているのは、中国在住の邦人を保護するためでも、中国の排外ナショナリズムに挑発されたからでもなく、日本自体が明治維新後一貫して専制的な軍国主義国家であったからだ」      (28)

 

この博士論文は、出版されると高く評価され、「歴史学者としての地位と名声を不動のものに」()した。この論文は、ライシャワーによれば、戦時中と戦後のアメリカや西側諸国の対日政策に最も大きな影響を与えた学術書であったと言う(29)

当然、マッカーサーにも大きな影響を与えた。終戦後再び来日したノーマンは、東京の対日理事会のカナダ代表になるが、マッカーサーからの要請により、総司令部の対敵諜報部(CIS)の調査分析課長に迎えられる。そして、「東京裁判の被告の選定や、政治犯の釈放と天皇批判の自由を保証する人権指令の策定など」を任された(30)

19448年からウイロビーによって共産主義者としてマークされ出したノーマンは、195010月、突然、カナダに呼びもどされ、「国家に対する裏切り」容疑で取り調べを受ける。この時は容疑が晴れるが、195187日、米上院司法委員会国内治安小委員会で、危険団体としてのIPR(太平洋問題調査会)との関連でノーマンの名前が挙がる。

同年9月、対日講和会議のカナダ代表主席随員を務める。その後、1956年、カナダの駐在エジプト大使となるが、同年44日、カイロで投身自殺を遂げた。

 

日本人に対する偏見又は無知が「日本国憲法」の背景にある

GHQの対日占領政策に大きな影響を与えたのは、ノーマンだけではない。本書は高橋史朗『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版社、2014)を基に、英国の社会人類学者ジェフリー・ゴーラと有名な米国の文化人類学者ルース・ベネディクトの名前を挙げ、説明している。

ゴーラの「日本人の性格構造とプロパガンダ」という論文は、日本人の国民性の根底には幼少期の厳しい用便の躾があるという認識の下、「日本人の国民性を➀原始的②幼稚及び未熟で不良少年の行動に類似➂精神的感情的に不安定で脅迫的な「集団的な神経症」と定義」(31)づけている。ゴーラの「日本人の国民性」に関する研究は、1944121617日のIPR臨時会議で、40人を超す著名な専門家によって同意されたと言う。

ゴーラは、更にこの見解を推し進めて、厳しい用便の躾からくる日本人の「集団的な神経症」が「侵略戦争」の背景にあると分析するようになる。ベネディクトも、このゴーラの影響を受けている。

 ベネディクトによる「日本人の国民性」研究は、占領軍の対日政策にも、憲法問題にも大きな影響を与える。本書は次のように述べている。

 

こうして彼らの報告書を読んだハル国務長官とハミルトン補佐官(中国派)が、「日本の軍国主義は国民の伝統に根付いている」と誤解したことが要因となって軍国主義を生み出した日本の統治機構を改革するために、「帝国憲法」を改正することになったと理解してよいだろう。     33

 

 この部分を読み、「日本国憲法」の背景には、アメリカの日本人に対する偏見又は無知があるということを改めて思った。書いている内容はすべて私にとって既知の事柄だが、このように明確に偏見又は無知と「日本国憲法」を結び付ける書き方は、初めて目にした気がする。私にとっては、この部分が一番勉強になった。

 なお、高橋氏の『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』をお読みいただきたい。アメリカの日本人に対する偏見又は無知の問題が本当に鮮明な形で記されている。

 

ノーマンが憲法研究会案を生み出した

ところで、ノーマンの話が出たが、民間の憲法研究会案がGHQ案に大きな影響を与えたということを一つの根拠として「日本国憲法」の押し付け性を否定する見解がある。しかし、実は、憲法研究会案は、GHQが中心執筆者の鈴木安蔵に大きな影響を与えて出てきた案に過ぎない。決して日本人が自発的に生み出した憲法案ではない。このことは、私も『戦後教育と「日本国憲法」』や『「日本国憲法」無効論』の中で簡単に記しているが、吉本氏は、第6章の288頁から290頁にかけて、委しくそのことを展開している。ここの記述は是非読まれたい。

本書によれば、1945922日、ノーマンは都留重人とともに、世田谷区下馬にある鈴木安蔵宅を訪問した。このとき、ノーマンは、鈴木に対して「天皇制の根本的な批判がなければ、日本の民主主義化はありえない」と力説したと言う。その後、鈴木は何度も総司令部を訪れ、ノーマンと議論を重ねて憲法構想を練っていく。そして、憲法研究会を高野岩三郎らと作り、憲法研究会案を作り上げていくのである。明らかに、ノーマンの工作によって憲法研究会案は生まれたのである。

ここの記述は非常に意義のあるものなのだが、根拠となる文献が何なのかよく分からない。前後を見回してもよく分からない。この部分だけではなく、吉本氏の著作を読んでいると、根拠文献が分からないことが本当に多くある。この点は何とかしていただきたいと思う。

 

第九条幣原提案説の徹底的批判

 日本人に対する偏見又は無知と「日本国憲法」の関係、ノーマンの工作に続いて、本書で面白かったのは、第九条幣原提案説を徹底的に批判していることである。改憲派においては、一般に幣原提案説は否定されているが、マッカーサーの捏造だと言い切る言説には出会ったことはないように思う。第9章第二節「第九条の発想はどこから来ているか」で展開しているが、該当部分の小見出しを拾うと、「第九条の発想は幣原首相なのか」「読売新聞に掲載された外交記録」「総司令部はなぜ「マ・ノート」の掲載を許可したのか」「第九条幣原提案説は作り話である」「マッカーサーはなぜ第九条幣原提案説を捏造したのか」となる。幣原提案説を否定する言説は多数目にしてきたが、マッカーサーの捏造だとまで言いきる言説は初めてである。

 では、マッカーサーはなぜ捏造したのか。その答えは、元内閣法制局憲法資料調査室長の大友一郎氏の言葉の中にある。大友氏によれば、マッカーサーは、朝鮮戦争勃発後、9条を与えたことを後悔した。「憲法公布後わずか四年たらずで、日本の近隣で戦争が起こることを予想できず、憲法に理想主義的な不戦無防備条項を入れてしまったとなっては自分の権威に傷がつく」(354頁)。そこで、自分の不名誉を挽回するために、せめて9条の提案者を自分ではなく幣原であったということにしたのだという。

 本書を読むと、幣原の長男道太郎氏によれば、194912月末の記者会見で、幣原は「マッカーサーが第9条の作者は自分だと(公にではないが)いい触らしているので当惑している」(359)と述べたと言う。朝鮮戦争以前に、既にマッカーサーは9条のことを後悔しだしていたようだ。

 ともあれ、大友氏の推論は、恐らく正しいのではないかと感じた。

 

96条は改憲させないために作られた      

最後に面白かったのは、第十章第五節「日本国憲法」のどこを改正しなければならないのか」に記された、改正要件を定めた「日本国憲法」96条作成過程の部分である。96条の部分を最初に起草したリチャード・ブールとジョージ・ネルソンは、➀1955年まで憲法改正を禁止する、②それ以後は10年ごとに特別国会で憲法改正問題を審議する、➂改正案は国会の3分の2以上の多数で提案され、4分の3以上の賛成を得て成立する、という案を作成した。ケーディスが改正要件が厳しすぎると言って反対したが、二人は次のように反論したと言う。

「一〇年間改正を禁止することにすれば。日本国民が新しく獲得した民主主義を学んでいる間に、自分たちで自主的に運用する技術を失ってしまうことを防ぐことができます。

……また、憲法改正の提案と承認を、三分の二と四分の三という高率の賛成が必要であるとした点は、単に多数派というだけの勢力による政治的気まぐれで、憲法が改正されることをなくすためであります」   415

 

二人は、徹頭徹尾、日本人は民主主義をなかなか学べないだろうと言う日本人蔑視の意識から、改正へのハードルを高く設定しようとしていることが知られよう。この二人には、君主制の下の民主主義というものが理解できていなかったということもあろう。

ともあれ、96条には、できるだけ改正させないという起草者の意思が込められているのである。その後の議論で、少しは改正のためのハードルは緩くなったが、現「日本国憲法」96条は、やはり相当程度ハードルを高くしている。すなわち、96条によれば、国会による改正の発議の為には衆参各院の「総議員の3分の2以上の賛成」が必要とされ、国民投票の過半数の賛成で改正が成立すると言うことになっている。単なる「3分の2以上の賛成」と「総議員の3分の2以上の賛成」とは大きな違いがある。「総議員の3分の2以上の賛成」という場合には、改正反対勢力は改正案に反対しなくても、反対でも欠席でも棄権でも、改正案を葬ることに成功することになるからである。「総議員の3分の2以上の賛成」というのは非常に高い壁となっているのである。だからこそ、「日本国憲法」改正論の方法では改憲が失敗続きであったわけである。

ともあれ、日本人に対する偏見又は無知から「日本国憲法」が生まれ、その偏見又は無知から96条が生まれているわけである。


転載自由


スポンサーサイト



南北戦争の経験からマッカーサーは東京裁判に批判的だった――吉本貞昭『東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実』より

吉本貞昭『東京裁判を批判したマッカーサー元帥の謎と真実』(ハート出版、2013)を読んだ。論旨が良く分からない本だったが、特に日本の民族派において評価の低いマッカーサーのイメージをよくすることを目指した本である。そのために、主に二つのことを強調しているように感じた。第一は、マッカーサーが東京裁判に関して有していた権限は形式的なもので、その権限は制約されていたから、「A級戦犯」の救済などできなかったとすることである。

第二は、東京裁判を批判する新聞記事や雑誌原稿が東京裁判初期から出ていたこと、また、マッカーサーが195153日から5日までの米上院軍事外交合同委員会聴聞会において「東京裁判は誤り」と証言したことを日本の新聞が相当程度きちんと報道していたという事例を極めて多数挙げていることである。氏によれば、日本の新聞や雑誌などが東京裁判批判的な記事を掲載していた背景には、マッカーサーが東京裁判を批判的に捉えていたことがあるのだから、マッカーサー像を改める必要があるということになるのであろうか。

この二点に関する正確な評価は私にはできないが、東京裁判を批判する新聞記事や雑誌原稿がかなり多数存在したという指摘は新鮮だったし、それらの資料の多数の紹介自身は意味ある事のように感じた。

とはいえ、余りにも引用が長すぎることが気になった。一次資料ならまだ引用理由がわかるし我慢できるが、他の先行研究の本を長々と引用しており、その研究者の論旨も明確には分からないし、また吉本氏自身がどのように考えているのか、その論旨も明確には分からなかった。引用文の重要個所に傍線を引いているが、せめて、傍線部と関連づけて自己の見解を記してほしかったと思う。こういう読書経験は随分なかったように思う。

 

南北戦争後の勝者の裁き

ただし、勉強になったので備忘のために書き記しておきたいこともあったので、その点を認めておきたい。それは、マッカーサーが東京裁判を批判的に捉えた根底には、南北戦争に対する認識があったということだ。本書第一部第一章「マッカーサーはなぜ東京裁判を批判したのか」の「ルーツは南北戦争だった」では、G2のウイロビー将軍の次の文章が引用されている。

 

対日理事会のメンバーたちは、極東国際軍事裁判をニュールンベルグの東京版に仕立て上げようと目論んでいたが、マッカーサーはどうしてもこれに賛成しなかった。マッカーサーは、一個の歴史家として、かつてアメリカの南北戦争で敗北した南部が、戦争終了後数十年を経ても、北部に対する深い恨みを抱きつづけたことを知っていたからである。 46

 

 では、南部はなぜ深い恨みを抱き続けたのであろうか。吉本氏は、牛村圭「東京裁判パル判決の謎を解く」(文藝春秋平成199月号)を参考に、この点について説明している。

 

ヘンリー・ワーズ所長の処刑

 端的には、ヘンリー・ワーズ大尉というジョージア州アンダーソンビル捕虜収容所所長を捕虜虐待と殺人の罪で処刑したことに由来すると言う。

 

 南北戦争の終結後、暗殺されたリンカーン大統領の替わりに大統領に就任した副大統領のアンドリュー・ジョンソンは一八六五年八月に、南部諸州の政治家と将軍を訴追から外す命令を下したが、北軍捕虜虐待を命令したとして、ワーズ所長の訴追だけを認可した。

 そして、八月二十一日から捕虜虐待と殺害の罪で、ワーズ所長の裁判が開始されたが、裁判長は、ワーズ所長が精一杯に捕虜収容所の環境改善に努力したという弁護側の主張よりも、検事側が用意した捕虜と近隣の住民の証言(ワーズ所長は乏しい食料と劣悪な衛生状態の改善を怠ったことや彼の命令で捕虜が殺害されたこと)のみを重視し、十一月六日に被告を絞首刑とする判決を下したのである。       

その直後に、ワーズ所長の独房を北部政府高官の代理と名乗るものが訪れて、「ジェファーソン・デービス(南部側大統領――引用者)も捕虜虐待に加担していた、と証言すれば死刑からの減刑を施す」という偽証をワーズ所長に要求したが、彼はきっぱりと、この要求を拒絶したため十一月十日に処刑されたのである。     49~50


ワーズ所長の記念碑建立 

 その43年後、1908512日、南部愛国婦人団体「南部連合子女の会」ジョージア支部が、ワーズ大尉の記念碑を建立した。デービス大統領は、記念碑の台座に、次のような一文を書いた。

時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剝ぎ取った暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の多くの賞罰に、その処を変えることを要求するであろう。      50~51

 

東京裁判で無罪判決を書いたパール判事は、意見書をこの一文で締めくくっている。つまり、パール判事は、南北戦争と東京裁判を結び付けてイメージしており、それゆえにまた無罪判決を書いたと言えるのである。

そして、吉本氏によれば、マッカーサーもまた、パール判事と同じく、南北戦争のこともあって東京裁判に批判的だったというのである。



袖井林二郎『占領した者された者』――法の精神の欠如・法学的素養の欠如からくるマッカーサー万歳

  30年ほど積読状態であった袖井林二郎『占領した者された者』(サイマル出版会、1986)を読んだ。この本は、1970年代から80年代にかけて、袖井氏が認めた様々な論考をまとめた本である。個々の事実に関する記述については、面白いものがあった。例えば、「マッカーサー伝説」(1977)という論考の中で、マッカーサーの嘘について記している。

 

 マッカーサーにまつわる伝説のうち、もっとも古く、しかも今でも多くの人が信じているのは、彼が父アーサーの副官として日露戦争を観戦したという話である。実はマッカーサーが一九〇五年十月十日にサンフランシスコを出港して日本へ向かった時は、すでに戦争は終わり、ポーツマス講和条約も九月五日に調印されていたのだが、彼は後年まで多くの人に日露の戦いを見た思い出を語ってやまない。これは見たいと熱望していたものを見られなかった人が、心理操作によってまず自分をだまし、それによって他人をもだますという現象にほかならない。       139~140

 

 こういう有益な情報もあるのだが、この本は、基本的に占領期前半のマッカーサー万歳、民政局万歳の本である。それにしても、占領期に対する捉え方、日本の戦争に対する捉え方が、今日の多数派歴史教科書や公民教科書の捉え方と全く同じであることに改めて驚いた。

 

侵略戦争論、犯罪国家観

 最初に、「ある被占領者の弁」(1976)にある、以下の言葉を引用したい。

 

もちろん日本人は、アメリカからやつてきた征服者が、中国本土やアジア各地を荒らしまわった皇軍のような野蛮な侵略者でなかったことに感謝しなければなりません。 58

 

 まず「征服」という言葉が使われていることに注意しておきたい。この問題は後で論ずることにするが、ここで確認しておきたいのは、まず氏が日本の戦争を侵略戦争と捉えていること、そして単なる侵略でなく野蛮な侵略だと捉えていることである。それは、1982年日本政治学会で氏が占領の国際比較を提案した「日本と占領――比較論の試み」でも見ることができる。   

 ここで氏は、アジアで日本が戦争中に占領していた地域の「軍政」の研究がスタートとなるべきだと提案する。日本によるアジア占領は戦闘継続中のものであり、アメリカによる日本占領は戦闘終了後のものであるから、すんなりとは比較対象にはならない。だが、その点はいいとして、氏の言うことを引用しよう。

 

アジアで日本が勝っていた時、日本はどのような軍政を布いたのか、あるいは布こうとしたのか――それがわれわれが日本占領を研究する際のスタートにならなければならないと私は信じています。……

a占領軍がやってくれば、日本の女性はみな強姦されるという噂が広まった。それは大日本帝国の陸軍が、中国あるいはアジアでやったことが、まさにそのことだったからです。ところがb実際には、米軍進駐にあたってそんなことはほとんどなかったと言っていいでしょう。非常に陽気なアメリカの進駐軍なるものが、日本本土に進駐してくる。

大日本帝国の軍隊と比べると大変にこれは違うのであって、そこからアメリカによる占領に対する日本人の新しいイメージが急速にでき上がってくる。ですから、そういった意味で私は、日本の軍隊がアジアで行った軍政なるものは、やはり占領研究の上で非常に大事なスターティング・ポイントになるのではないだろうかと思うのです。

cもちろん軍政の中身は大変ひどいものだということは私たちは聞かされております。

                               241~242

 

  1980年代には、この傍線部のような認識が、特に研究者には広まっていたように思うが、このような思い込みが、「従軍慰安婦」問題が捏造されていく背景にあったのであろうと改めて感じた。

また特にbにはびっくりした。袖井氏は、敗戦の時には13歳だったというから、米軍による強姦事件、殺人事件の多さについては知っているはずであるが、耳にしても、氏の記憶には残らなかったと言うことであろうか。

 ともかく、氏は、戦後歴史学が唱えてきた侵略戦争論と日本犯罪国家論にどっぷりとはまっているのである。もちろん、これは、当時の多数派であった。

 

民主主義はアメリカに初めて教わったという事実誤認

このことと関連するが、至る所で、日本はアメリカに民主主義を初めて教わった、それまで日本には民主主義はなかったと考えているような記述が出てくる。袖井氏は、近代日本憲政史をきちんと研究していないようである。1970年代から80年代という時期では普通のことであったから仕方がないけれども。

この本を読んで、『新しい公民教科書』の検定過程を想い出した。教科書調査官は、日本は民主主義・立憲主義をすべて戦後改革の中でアメリカから学んだと考えているようであった。袖井氏的考え方が今もインテリ層で根強いことを指摘しておこう。

 

米軍による占領を合法的征服と捉える――ポ宣言は無条件降伏

 侵略戦争論と犯罪国家論が関係しているのであろうが、氏は、米軍による占領のことを「征服」と表現しつつも、合法的なものと捉えているようである。「占領研究の歴史学と政治」(1980916日毎日新聞)という論考で氏は、「日本は征服によってでなく契約によって降伏したのであるという氏(江藤淳氏のこと―引用者)の主張は、旧占領関係者の「耳を疑わせる」体のものであり(236)と述べている。

 ここからうかがわれるのは、袖井氏が、日本はポツダム宣言受諾によって無条件降伏し、連合国に征服されたとしていることである。つまり、合法的征服説である。それゆえ、「日本国憲法」押し付けも合法となり、東京裁判も合法となる。そして、征服と考えれば、〈民主主義と戦争放棄という素晴らしい思想、日本国憲法を押し付けてもらって万歳〉となるわけである。

 しかし、ポツダム宣言を読めばわかるように、日本は有条件降伏をしたのであり、無条件降伏をしたわけではない。それゆえ、アメリカが征服したということになれば、どんなに良い征服をしたとしても、それは違法行為である。

 

ポ宣言は条件付降伏――東京裁判と「日本国憲法」は違法

条件付き降伏を要求したポ宣言には、東京裁判のことは書かれていない。それゆえ、東京裁判は違法となる。また、憲法改正のことも書かれていない。しかも、ハーグ陸戦条規43条には占領下における法律改廃を禁止している。それゆえ、原則的に憲法を改正させる行為は違法となる。仮にバーンズ回答によって日本側に憲法改正義務が生じたと解しても、ポ宣言もバーンズ回答も「日本国民の自由な意思」によることを保障していたから、「日本国憲法」の押し付けは違法となる。結局、東京裁判と「日本国憲法」は、共に違法なものとなるのである。このことは、日本の戦争の善悪と関係なしに出てくる結論である。袖井氏には、法規範意識、法の精神がないようである。いや、氏だけではない。戦後の多くの憲法学者や歴史学者には、少なくとも法の精神がないのである。

 

天皇の戦争責任論――法の精神の欠如、法規範に関する素養のなさ

 法の精神のなさ、法規範に関する素養のなさは、天皇の戦争責任を追及すべきであったとする氏の立場にも表れている。かつて小室直樹氏が述べていたように、帝国憲法3条「天皇は神聖にして侵すへからす」からして天皇無答責となる。本来、天皇責任論など出てくる法的可能性は存在しないのである。

 

 以上、本書を読んで思ったことを、備忘録として記しておく。ともかく、ポツダム宣言をどう解釈するかという点が大きな分岐点であることに改めて気付かされた。少しずつ有条件降伏説が増えてきてはいるが、現在でも、中学校歴史教科書では、無条件降伏説と有条件降伏説は半々である。有条件降伏説を、中学校歴史教科書や公民教科書において圧倒的な多数派にしていく必要があると改めて感じた次第である。



高尾栄司『日本国憲法の真実』――GHQ案の起草者について


体力がなかなか戻らず、予定よりも2,3か月遅れてしまったが、〈戦時国際法と日本の戦争〉というテーマに関する仕事を再開したい。2年前の秋に、一通り占領期から独立回復までの時期について見通す段階となり、東京裁判については一応終わり、後は「日本国憲法」と「新皇室典範」の成立過程史に入る段階で、仕事が中断してしまった。1年半も中断してしまったことになる。

まずは「日本国憲法」成立過程史や「新皇室典範」成立過程史に関する本を読み進めていきたい。最初に高尾栄司『日本国憲法の真実 偽りの起草者ベアテ・シロタ・ゴードン』(幻冬舎、2016)である。


本書の課題

本書は、副題にあるように、ベアテ・シロタが「日本国憲法」24条の男女平等条項や14条の平等条項の起草者といえるのかという課題を追究した書物である。そのために、19463月までの政府案作成過程までの経過を追いかけ、特に34日の第2の「押し付け」に焦点を当てて論じている。第2の「押し付け」とは、GHQ案を基に日本側が作成した案についてGHQと日本側が交渉した34日から5日にかけての出来事を指す。1946213日に吉田外相邸でGHQ案を交付した時を第1の「押し付け」とするならば、この34日の出来事は「第2の押し付け」と捉えることができる。

この出来事が、213日のGHQ案交付以上のひどい押し付けであることを最初に指摘したのは、管見の限り私であった(『戦後教育と「「日本国憲法」」1992年、『「日本国憲法」無効論』2002年、特に後者)。そのような事情からも、本書がこの「第2の押し付け」の様子を詳しく記したことは喜ばしいことである。もっとも、高尾氏が「押し付け」と捉えているのかどうかは定かではない。34日の出来事で氏の批判に一番さらされるのは松本丞治国務大臣だからである。

このように、34日の出来事に焦点を当てたことが第一の特徴だが、第二の特徴は、本書の主人公であるベアテ・シロタ、もう一人の主人公であるルースト夫妻を初め、多くの登場人物の来歴及び人物像を詳しく探究していることであろう。

以下、まずは目次を掲げたうえで、初めて学んだこと、改めて学んだこと、特に気になったことなどを記していきたい。

 

 

目次

 

まえがき

第一章     ロシア系ユダヤ人の「運命」

著名音楽家レオ・シロタの娘として

転変したユダヤ人の運命

広田弘毅に頼み米国留学へ

日米開戦としろた家

育まれた日本人への憎しみ

OWI―――ホワイト・プロパガンダの本拠地へ

 

第二章 GHQ VS POLAD

風にそよぐ近衛

GHQ VS POLAD 

松本委員会とGHQ民政局

GHQ本部に飛び込んだ若い娘

天皇がいなくなれば、東京の路上で暴動が起こる        

マッカーサーに「戦争放棄」を提案した幣原の本心    

「毎日」がスクープした松本草案                      

「マッカーサーの首相」ホイットニーの人間像          

十六名の憲法「起草者」たち                 

 

3章 「虎の巻」を求めて東京中を駆け巡る                          

躁病に罹ったように狂乱した局員たち

GHQ内に憲法起草「委員会」は存在したか       

ワイマール憲法とソビエト憲法を「コピペ」    

シロタ家とソ連の縁                           

ウィロビー、ベアテ調査の指令                  

民政局内の共産主義者人脈      

過激すぎて削除されたベアテの草稿 

「コピー憲法」に疑問を抱いていたワイルズ           

ルースト課長と神智学協会      

 

4章 色濃く反映された「神智学」思想

 神智学信徒ルーストが作った人権条項    

憲法第14条起草者ピーター・ルーストの生い立ち              

憲法前文をつくったアルフレッド・ハッシーとは            

 

5章 骨抜きにされた日本案            

ホイットニーに翻弄された松本委員会

「原子の光」を引き合いに恫喝               

「天皇の身柄」を盾に取った威迫              

小田原評定の松本委員会                      

戦線離脱した松本国務相    

法制局官僚佐藤達夫の苦悶と困惑                

一字一句民政局案に「忠実」に              

マッカーサーからのクリスマス・プレゼント     

 

6章 偽りの起草者           

   第三章第十三条をめぐるP・ルーストの壁 

  第十四条以降は民政局案を「台本」に

「日本人」像のベアテの思い込みと偏見                 

「語り」の天才ベアテ・シロタ    

「女性の権利」の生みの親はジーン・ルースト  

 

7章 成就した個人的な「復讐」  

「一院制」か「二院制」か         

安全保障の大切な条文が消えた瞬間         

結局は天皇の「御嘉納」で承認               

「公職追放」におけるベアテの役割           

「できるだけ多くの人間が引っ掛かるように…」         

「地方ボス」を解体せよ                

 ベアテ・シロタのプロパガンダ戦略                 

 新憲法に結実した個人的な復讐                

 

 

 本書の流れ

 目次から知られるように、本書は、第1章ではベアテが生を受けたシロタ家について描いている。次いで第2章では、「日本国憲法」をGHQが起草するに至る流れが記されている。その背景としては、米国務省日本代表部政治顧問部(POLAD)設置とGHQとの間の対立関係があったことを強調している。

3章では、民政局員たちが、どのようにしてGHQ案を作成していったか、その作り方が記されている。第4章では、本書が重視するピーター・ルーストとアルフレッド・ハッシーの思想を、特に掘り下げている。

5章では、2月に入ってからの民政局と日本側とのやり取りを書いたうえで、213日の吉田外相邸でのGHQ案の第1の押し付けを記すとともに、34日の第2の押し付けに入っていく。第6章では人権条項に関する日本側とGHQ側とのやり取りが、第7章前半では国会や内閣などの統治機構に関する条文をめぐるやり取りが記される。そして第7章後半では、ベアテ・シロタがホワイトパージを積極的に行なったことを記すとともに、彼女の憲法問題に関する立場を総括している。以下、章の順番に従い、特に気になったことなどを書き留めていこう。

 

2章 GHQ VS POLAD

POLADによる憲法改正の線

「第2章 GHQ VS POLAD」では、もう一度言うが、高尾氏はGHQ POLADの対立関係を描いている。

昭和20101日、三井銀行本店が接収され、米国務省日本代表部政治顧問部(POLAD)が設置された。POLADの責任者は米国務省日本代表部政治顧問の肩書をもつジョージ・アチソンであり、部下にはジョン・サーヴィス、ジョン・エマーソンがいた。3名とも、中国重慶以来の仲間であり、全体的に中国派が強かった国務省の中でも代表的な毛沢東主義者であった。彼らの任務は、「国務省が作った占領日本の計画書「SWINCC228」がちゃんと実行されるかマッカーサーを監視するため」(65)の組織であった。

当然にGHQPOLADは相互対立する組織であった。104日、近衛文麿はマッカーサーと会見し、憲法改正の問題に関して誰と連絡を取ったらよいか質問し、アチソンと連絡を取るようにと言われる。108日、近衛はアチソンを訪問した。高木八尺、松本重治、牛場友彦らを同行したが、全員がIPR(太平洋問題調査会)日本代表であった。こうして国務省の線に沿った憲法改正作業の線が出来上がったのである。

このラインに基き、近衛は、佐々木惣一らとともに箱根宮ノ下の奈良屋別館の三階を借り切り、憲法改正草案作りを行う。「近衛も小田原入生田の別荘から毎日のように通って討議を重ねた」(72)

 

GHQ VS POLAD                                         

しかし、109日、幣原内閣が成立した。同日、近衛は、アチソンの助言に従い、天皇に拝謁し、内大臣府御用掛の任命を受ける。1011日、幣原が総理大臣就任のあいさつに行くと、マッカーサーから憲法改正の指示がある。ここに内大臣府御用掛の近衛による作業と内閣による作業と二つのラインが出来上がることになったのである。

1012日の閣議中、近衛による憲法改正事業の情報が入る。松本丞治は、内閣がすべきだと発言した結果、松本が担当大臣となる。松本は、幣原と同様、憲法改正を差し迫ったものと考えておらず、講和後に憲法改正するのが相応しいと思っていた。しかし、その準備をすべきだとして憲法問題調査委員会設置を提案した。設置が決まり、清水澄、美濃部達吉、野村淳治らを顧問とし、宮沢俊義らを委員とする憲法問題調査委員会が正式に設置された(70~72)。アチソンの指導を受けていた高木八尺などの人たちは参加できなかった(76)

マッカーサーは、近衛の背景にあるPOLADを警戒した。三井銀行本店にいるPOLADには、国務省と直接結ばれる電信通路回線がない。GHQを通じて国務省につながる形になっていた。POLADの通信内容は、すべてマッカーサーに筒抜けとなっていた。マッカーサーは、国務省が日本の憲法改正に介入することを嫌っていた。117日のアチソンの国務省への報告によれば、POLADスタッフが新憲法の件で関係者と接触するだけではなく、GHQ本部入館さえも禁じられてしまった。エマーソンは、日本から退去命令を受け、アチソンは、事故死した(72~75)

結局、マッカーサーは、POLADの動向を探るために、近衛を利用した。111日、「元帥が近衛に憲法改正をやれといったのは通訳の誤りである」と発表した。その後、近衛は戦犯容疑者となり、1216日に自殺してしまう(76)。この自殺も怪しい点が多いようだが。

 

「戦争放棄」を提案したとされる幣原の本心       

 第2章で面白かったのは、マッカーサー証言によって9条の提案者とされた幣原喜重郎の長男道太郎元獨協大学教授獨協大学教授の証言である。

本書によれば、幣原は、GHQには憲法改正の意図はない、ポツダム宣言の要請にも解釈で対応できると考え、さらに11か国から成る極東委員会が加われば、最終的に何も決定できないはずだと読んでいたと言う。

ともあれ、昭和21(1946)124日、幣原がマッカーサーを訪問した。『マッカーサー回想記』では、このときに幣原が戦争放棄を提案したとされるし、幣原自身も、『外交五十年』のなかで、自分の信念から提案したとした。しかし、今日では、幣原提案説は定説ではなくなっている。

本書には、つぎのような幣原道太郎「憲法第九条を強要された父・喜重郎の悲劇」(『週刊文春』1981326日号)の文章が引かれている。

 

 言いたいことも言えず、書きたいことも書けないまま、八十歳の生涯を閉じた父の無念さを知る私にとって、第九条を金科玉条のごとく考える風潮と…”第九条幣原提案説”だけは、どうしても我慢できない

 

 更に、道太郎氏は、『外交五十年』について幣原が米国民の心を和らげるために心にもないことを書いた原稿だと述べていたという。(97)

 

POLAD→民政局

「毎日」による松本委員会案のスクープ記事をきっかけにしてGHQ案が作成されることになったが、本書によれば、米国側で毎日の記事に最初に注目したのはPOLADであった。POLADは松本委員会案を英語訳した。民政局員サイラス・ピークは、POLADの一員である知人から、宿泊先の第一ホテルの入り口でわざわざ呼び止められ、毎日を読んだかと言われ、英訳案を見せられる。ピークは、自分の部屋で英訳案を読み、許可を取って要点を書き留め、自室に入って内容の要約づくりに入った。22日の朝、ピークは一番に松本案に関するメモをホイットニーに伝えた。 ホイットニーは、これをマッカーサーに届けようと言う。そして、ピークに人を集めて松本案の英訳とその解説をつくれ、と指示した(102~104)

2日午後6時、司令部の執務室に戻ったマッカーサーは、ホイットニーから報告を聞くと、日本案拒否の理由を説明するメモを用意させた(110)

 翌23日日曜日、午前11時、マッカーサーの執務室で、マッカーサーとホイットニーの会談が行われる。1時間ほどして、ホイットニーは、ハッシーに一枚の紙を渡して、所謂・マ三原則を示す。これは、2日夜から3日朝にかけて、マッカーサーが考えたものであった。

 ホイットニーは、ハッシーにどうしたらいいかなと声をかけ、二人で話し合った。ハッシーは、ケーディスとラウエルを呼び行動計画を立てようと提案し、3日夕方、第一ホテルのハッシーの部屋に、3人とホイットニーが集まった。そして、運営委員会を三人でつくること、秘書をルース・エラーマンとすることを決めた。その日、一部始終をみていたエラーマンによれば、3人はまるで狂乱したかのように取り乱したと言う。

 運営委員会を構成する3人は、民政局員たちを、立法権、人権、司法権、行政権、地方行政、財政、天皇・条約その他、前文の8つの委員会に割り振った。そして、明くる24日に民政局員たちが、憲法改正のために集められるのである。

では、サイラス・ピークは、なぜPOLADから情報をもらえたのか。ピークは、国務省所属からGHQ配属となったため、POLADGHQ双方に知人を作れた。GHQ民政局は総司令部の6階にあったが、610号がホイットニー、611号がピークとトーマス・ビッソン、612号がケーディスの執務室であった。ピークは、毛沢東派のトーマス・ビッソンを通じて、親ソ派のアンドリュー・グラジャンツェフとも知り合いになっていた。明らかに反日派の人脈であった。

 

運営委員会と8つの委員会

 194624日、午前10時、会議室に、朝鮮部を除く25名に集合がかかり、集まった。そして、以下のような体制で憲法起草作業が始まることになった(119)。記憶のため、記しておこう。

 

運営委員会

 チャールズ・ケーディス大佐 弁護士

 アルフレッド・ハッシー中佐 弁護士

 マイロ・ラウエル中佐 弁護士

 ルース・エラーマン OSS

立法権委員会

 フランク・ヘイズ中佐 弁護士

 ガイ・スゥォープ中佐 会計・税理士

 オズボン・ハウギ中尉 編集者

 ガートルード・ノーマン タイピスト

行政権委員会

サイラス・ピーク 大学教員

ミルトン・エスマン中尉 大学教員 途中解任

ジェイコブ・ミラー 

人権委員会

 ピーター・ルースト中佐 大学教員

 ハリー・ワイルズ OWI

 ベアテ・シロタ OWI

司法権委員会

マイロ・ラウエル中佐 弁護士

アルフレッド・ハッシー中佐 弁護士

マーガレット・ストーン タイピスト

地方行政委員会

 セシル・ティルトン少佐 大学教員

 ロイ・マルコム少佐 

 フィリップ・キーニー OSS員  途中解任

財政委員会 

 フランク・リゾー大尉 投資会社役員

天皇・条約その他諸事項委員会

 ジョージ・ネルソン中尉 財団研究員

 リチャード・プール少尉 国務省

前文担当委員会

 アルフレッド・ハッシー中佐 弁護士

タイプ担当

 S・ヘイズ

 E・ファーガスン         以上、115~118

 

3章 「虎の巻」を求めて東京中を駆け巡る  

 

立法権班などはあっても、委員会はつくられていない

 第3章に入ると、上記のメンバーのうち、国務省のプール少尉について興味深いことが書いてある。プールの上司はアチソンであるが、前述のようにアチソンはサーヴィスと反日で一致しており、「天皇は戦争犯罪の罰から免れることはできない」という考えを持っていた。そこで、あえて、運営委員会はプールに天皇条項を割り当てた。マッカーサーの意向を受けたうえでのことだと言う(131)

さて、ここにあげた8つの委員会は、通常、当たり前のように「委員会」とされているが、本書は次の第3章で、委員会など存在せず、班が存在しただけだと言っている。人権委員会に属したハリー・ワイルズは、1972423日、「委員会などは存在しなかった」と証言した。ワイルズによれば、8つの委員会は、委員会ではなく、班とでもいうべきのであった。 例えば、ワイルズの人権班では、ルースト中佐が、ワイルズは市民の自由、ベアテは男女平等と割り当てただけである。3人で話し合うこともなかった。班内でさえ、個人の接触は禁止されていた。また、人権班の条項は、ルーストが勝手に書き換えて、運営委員会に提出したという。納得のいかない工程であったから、ワイルズは、起草者と呼ばれることを拒否してきたという。ワイルズは困ってしまった。マ三原則は口頭で伝えられたのみであり、「SWINCC228」も読んだことがなかった。そこで、手元にあった米国憲法とソ連憲法を使うことにした。特にソ連憲法を参考にして人権条項を作ったと言う(133~135)

このように委員相互の討論もないグループは、班とは言えても、委員会と呼べるものではないであろう。第3章で一番勉強になったのは、この点である。

 

女性の権利はルーストの妻ジーンの願い

3章が触れている一番興味深い事実は、人権班の班長ルーストが妻のジーンに相談していることである。ルーストは、22日のうちに憲法起草のことをラウエルから知らされ、人権班の班長になれと言われる。その晩すぐに、新妻ジーンと相談した。妻は、女性の権利を条項として入れろと懇願した。その日の夜、徹夜で二人は話し合い、人権班の分担者を、次のように決めたという。


 Ⅰ総則、Ⅱ自由 16条まで ルースト担当

 Ⅱ自由、Ⅲ特殊の権利および機会 17から30条 シロタ担当

 所有権及び労働権31から41条 ルースト、ワイルズ担当

 司法上の権利42から48条 ワイルズ担当    (164~166)

 

 シロタ担当の14条分は、運営委員会の段階で、8条文が削除され、女性の権利条項を含む残りの6条分も大幅修正となった。

 ともかく、女性の権利条項は、ジーンの思いから由来するものである。ジーン自身も、1972311日の証言によれば、女性に関することは、夫ルーストが妻ジーンから学んだことを「日本国憲法」の中に込めたのだとしている(190~191)

 

4章、第6章、第7

 神智学思想とピルグリム派の思想が「日本国憲法」に入り込む

 第4章では、人権班の班長ピーター・ルーストの神智学思想が、「日本国憲法」の人権条項に大きく入り込んでいるとする。「日本国憲法」13条や20条政教分離、18条奴隷的拘束や苦役からの自由といった、日本の伝統からかなり離れた人権条項はほとんどがルーストが持ち込んだもののようだ。ある意味混乱を持ち込んでいる「日本国憲法」97条も、ルーストの持ち込んだものである。人権部分から大移動してはいるけれども。そこで、第4章ではルーストの生涯を詳しく扱っている。

 また、前文を作ったハッシーが、ピューリタンの中でも更に厳しいピューリタン的生き方を求めるピルグリム派牧師の家庭に生まれ育ったことにも注意を払っている(216頁以下)

 

 5章、6章、7章は主に34日から5日にかけての「第2の押し付け」過程を描いており、本書の中心部分ともいえる章であるが、特に取り上げたいことは少ない。ただ、第7章の362頁以下の部分と、同じく第7章の「『公職追放』におけるベアテの役割」以下の部分を取り上げたい。

 

 ベアテには女性の権利の起草者という意識はなかった!?

 7章の362頁以下の部分を読むと、元々、ベアテ自身も自分が女性の権利の起草者であるという意識は全く、或いはあまりなかったようである。

19783月末、ベアテは、自宅マンションに、当時働いていたジャパン・ソサエティでベアテの隣で仕事をしていた人と日本から訪れた数名の英語教師を招いた。この時、隣で仕事をしていた人は、米国憲法には女性の権利も男女の平等もないと言った。ベアテは、「そんなバカな、ウソでしょう」と言った。そこで、彼は、「しかし、あなたは日本では米国よりも早く先にそれをやったのですよ。そんな大変なことをしたのを知らなかったのですか?」と言うが、ベアテは「えー?」と絶句し、「オーマイゴッド。私はそのようなことは考えもしなかった、本当に私がそんなことをやったの?」と答えたと言う(363~364)

ベアテは、後に日本で「日本国憲法」24条と14条の起草に関与したことにされていくが、14条には全く関与していなかったし、24条の最初の文章こそ書いたものの、大きく修正されてしまったし、女性の権利に関する実際の起草者は、本書によればルーストの妻ジーンであった。

にもかかわらず、ベアテがクローズアップされていったのは、1990年代に日本のマスコミがベアテのことを取り上げてテレビ放送し、『1945年のクリスマス 日本国憲法に『男女平等』を書いた女性の自伝』がベストセラーになってからである。

本書の中心課題である〈ベアテが女性の権利条項の起草者と言えるのか〉という課題は、十分に達成されたように感じた。

 

「公職追放』におけるベアテの役割

 ある意味一番勉強になったのは、第7章の「『公職追放』におけるベアテの役割」を中心にした部分である。ベアテは、ホワイトパージを積極的に行なった人物である。

 民政局次長ケーディスは、公職追放を進めた中心人物である。194614日、GHQによる公職追放令が出された。追放令には「好ましくない淘汰されるべき日本人」が7項目にわたって具体的に示されていた。特にG項「その他の軍国主義者・国家主義者」というものが問題で、どうにでも解釈できる条項であった。

 この条項に当てはまるかどうかの判断は民政局が行ったが、その中でもベアテ・シロタが所属していた政党課が重要な役割を担っていた。参謀第2部長であったウィロビーが作ったシロタに関する報告書には、次のように記されている。

 

 シロタ、ベアテ(TabH)

 ……彼女は日本人官吏の公職追放及び審査に直接関与、地方行政レベルにおける公職追放の範囲についても積極的な役割を果たしている。公職追放に関係する彼女の教務の中でシロタ嬢は左翼的な傾向を示し、左翼主義として完全に認められているP・マーカム(TabG)、アンドリュー・ジョナー・グラジャンツェフ(TabA)と行動を共にしている。シロタ嬢は公職追放者の対象期間も一九三一年以前にまで拡大するよう強く要望している。それは該当年以前に日本共産党の逮捕に関係した全日本人警察官僚を含める目的があるためである。さらに彼女は公職追放に当たり、個人的な好悪の感情にもとづき、つまり、彼女の父親レオ・シロタが戦前、戦中に日本滞在中にある個人を嫌悪したり、個人的に不快な経験をしたという理由でも、彼女は該当者を公職追放にしたと報告されている。

 シロタ嬢が父親から日本の警察及び官僚に対する憎しみを受け継いでいるのは明白である。

  (169)

 

 ここからベアテが、明白に左翼人脈の中の人間であることがわかる。また、日本の警察及び官僚に対する憎しみを父親から受け継いでいたことが分かる。本書は父親自身がソ連のスパイだった可能性に言及している。19917月にケーディスからエレノア・ハドレー宛に送られた手紙には、〈ベアテの両親は(恐らくベアテも)KGBの前身であるOGPUから訓練を受けて、オーストリア、そして日本に送り込まれた〉ということが書かれていたと言う(389~390)

 

できるだけ多くの政治家を追放せよ         

さて、公職追放と「日本国憲法」とは一体であった。ケーディスは、帝国議会で日本国憲法草案が可決されるように、衆院466名のうち381名を追放し、4月に行われた総選挙に立候補できないようにした。221日、政党課のルーストとワイルズは斎藤隆夫を民政局に呼び出した。斎藤は、進歩党公認衆院候補270人のうち、90%が追放対象者になっていると答えた。衆院選は、43日に立候補届け出の締め切りがなされ、10日に投票が行われた。定数466、内379名の新人が当選した。全議席の80%である。

 

「地方ボス」を解体せよ                

ケーディスらは、総選挙で社会党が第一党になることを望み、そうなると読んでいた。ところが、自由党、進歩党の順となり、社会党は第三党であった。

なぜ、そうなるのか。地方ボスがいるからだ。では、第一回参議院選挙(19474月実施)対策として、地方ボスを解体しよう。そのようにケーディスらは考えた。

 ケーディスは、199163日付のベアテ宛の手紙の中で、ベアテが地方ボス解体のために「熟達した仕事ぶり」を発揮したという。ベアテの調査によって粛清された団体には、日本競馬会、大日本武徳会などがあり、粛清対象人物には佐藤栄作や出光佐三らがいた。

 そして、民政局は、地域ボスの拠点である町内会、部落会、隣組の解体に向けて動き出す。ケーディスは、19466月帝国議会で、大村内務大臣に、町内会、部落会、隣組の長を選挙で選ぶように要求し、さもなければ廃止せよと述べた(377~382)

 しかし、ケーディスは、GHQの命令で廃止すれば自分たちに非難が来ることを恐れ、日本側に廃止令を出させた。日本政府は、町内会などの廃止を閣議決定し、1947122日付訓令4号を新聞発表した。

ベアテは、訓令や新聞発表だけでは足りぬとして、追放粛清の広報番組を提案した。そして、参議院選を前にして、1947329日の放送で「隣組、町内会、部落会及びその連合会の四つの機構は、本年四月一日以降廃止せられることとなった。この際、その廃止の意義度その後の措置について、国民諸君の注意を喚起することとする」と宣言された。

隣組等の解体については、ウィロビーは「零細企業主、村の指導者、町内会長(隣組)などを粛清することを伝える事案である」と記していた(387)       

 

コピペを以てベアテを批判することは妥当か

以上、本書の紹介をしてきたが、本書への疑問も記しておきたい。

高尾氏はベアテを批判するために、何度もベアテがワイマール憲法などをコピペした点を指摘している。例えば139頁では「コピペ行為は違法であり、これが判明すれば履修単位は解消され、学位も没収される」と記している。また149頁では、ベアテのコピペ行為について「そうすることは剽窃行為であり、そのような自覚が局員たちになかったはずはあるまい。だからこそ、他の局員はそれを明かさなかったのであろう。ところが、ベアテはそうした自覚が欠落しているばかりか、「自分が書いた」と公言し、「コピー」事実は隠蔽したのである」()。   

しかし、著作権法によれば、法律などの条文には著作権は存在しないから、コピペをしたことは「違法」でも「剽窃行為」でもない。また、コピペをしていた人は、本書自身が指摘しているようにベアテ以外にも多数存在した。それゆえ、コピペをしたことを以てベアテを批判することは見当違いというべきではないか。ベアテ以外の局員たちが自分が起草したなどとは言わなかったのは、マッカーサーの命令に対する違反となることを承知していたからである。マッカーサーやケーディスらには、本来日本の憲法は日本人が作るべきものだし、作ったように見せないとポツダム宣言違反になるという自覚が明確にあったからである。

 

帝国議会を国会と書くべきではない

更に、本書の展開にとっては小さな問題ではあるが、おかしな記述に遭遇した。

 

ケーディスは日本の国会に着目し、解散されていた前衆議院の四六六名に対して公職追放を発動、三八一名を追放し、次期立候補を禁止した。さらに貴族院八〇七名は罷免した

173

 

一つ目の傍線部の「国会」は帝国議会と記すべきである。他でも「国会」と記していることが多いが、帝国議会と国会は時期も違うし、別の組織である。大正時代の帝国議会を不正確に「国会」と書いても混乱は起きないが、占領期の時期を扱う本書が「国会」と書いてしまったら、読み手は混乱するだけであることを指摘しておこう。

二つ目の傍線部はもっとおかしな記述である。貴族院議員を罷免したなどという事実は存在しないのではないか。「追放した」と書くべきであろうし、貴族院議員はそもそも807名もいないから、数字の点でもおかしなことになる。

 

ポツダム宣言は有条件降伏である

高尾氏は明らかに改憲派であり、「日本国憲法」の正当性に疑問を呈している。氏は、「第六章 偽りの起草者」の「『女性の権利』の生みの親はジーン・ルースト」という小見出し部分で次のように述べている。

 

ベアテ・シロタが本当に「女性の権利」の起草者であったかを問うことは、非常に重要なことである。なぜなら、一部の日本人はそそれを頭から信じ込み、彼女に感謝し、崇拝さえしてきた事実があるからだ。そして、彼女が本当に「女性の権利」起草者であったかを真正面から問い、精査する初歩的な作業は全くなされてこなかった。

今、そうした作業がなされ、その結果、彼女の語った「ストーリー」が虚言であったとしたら、憲法起草に関わったこの人物の責任が問われるべきであり、そのような人物が関わった日本国憲法そのものの正当性も根本から考え直されなければならないのである
 314

 

傍線部の前までの記述にはおかしな点はない。だが、傍線部は明らかにおかしい。「日本国憲法」の正当性問題にとって、ベアテが「女性の権利」の起草者であったと言うストーリーが本当かどうかは極めて小さな問題であり、彼女の人物問題も同様であるからである。

ベアテをめぐる物語の虚構性を暴くことはそれなりに重要な問題だが、この問題を「日本国憲法」の正当性問題と結びつけることには無理がある。

「日本国憲法」の正当性問題に立ち向かうならば、一般国際法が占領下の憲法改正を禁止しているかどうか、ポツダム宣言が憲法改正を要求していたかどうか、要求していたとすれば、どのような方法で憲法改正を行うべきと考えていたか、探究すべきである。だが、氏は、この法的問題についての探究をせず、GHQ等が憲法改正問題に乗り出してきたことに、基本的には何の法的問題もないと考えているようである。

なぜ、そのように考えてしまうのか。それは、改憲派であるにもかわらず、氏はポツダム宣言によって日本は無条件降伏したと捉えているからである。本書にはポツダム宣言の性格を記した記述はないが、姉妹編とも言うべき同氏の『ドキュメント皇室典範』(幻冬舎、2019)には、次のような記述がある。

 

一九四五年七月末、日本の無条件降伏を勧告するポツダム宣言が伝えられる。 182

 

2年前にこの記述を読んだときにはびっくりした。日本がポツダム宣言によって無条件降伏したと捉えていれば、基本的に、連合国側がいろいろ憲法問題に口出しすること、起草することさえも違法ではないと言う考え方になるのであろう。

それゆえ、高尾氏は、34日の出来事の際、ケーディスと大喧嘩して帰ってしまった松本丞治国務大臣の行動を「勝手で無責任な退室」(261)と位置づけている。そして、松本が公職追放された件についても、「そんな身勝手な松本に怒りが向けられた証であろう、彼はその後、GHQ民政局によって公職追放された」()と記している。

確かに、残された佐藤達夫から見れば「勝手な行動」であった。だが、松本は、占領中には憲法改正すべきではないと考えていたし、憲法というものは日本人自身が作るべきであり、その作業にGHQ側が口出ししてくること自体に腹を立てていた。しかも、ケーディスが日本のことを知らないくせに偉そうに上からものを言う態度にも猶更腹を立てていた。後世のことを考えたとき、GHQに対する批判的態度をしかるべき立場にいる人物が示して置く必要があったともいえる。そういう批判的態度をGHQ側が許せないと感じたからこそ、松本は追放されたのである。

高尾氏が「日本国憲法」は日本人自身が作るべきであると言う当たり前の法規範意識を持っていたならば、松本大臣に対して、「勝手」「無責任」といった一方的な評価を下すことはなかったであろう。

松本に対する評価はともかくとして、高尾氏には、一般国際法を示したハーグ陸戦条規第43条やポツダム宣言について、氏なりの研究をしていただきたいと考える。この研究を踏まえれば、氏の「日本国憲法」や「新皇室典範」の研究は、より確かなものになるのではないだろうか。


転載自由                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 

 

 

 

 

 

菅原裕『東京裁判の正体』を読んで――いくつかのエピソード

 佐藤和男編著『世界がさばく東京裁判』などを読む作業を通じて、東京裁判の概要、問題点について一応のところ掴み得た気がしている。今回は、この作業を行う際に参考文献として用いた菅原裕『東京裁判の正体』(1961年初版、2002年復刻版、国書刊行会、)の中から、特にエピソード的に興味深い記述を取り上げていきたい。菅原裕は荒木貞夫被告の弁護人であったから、本書は裁判の当事者の証言という意味もある。

まず、目次を掲げよう。

 

目次

第一部

 第一章 戦争裁判の意義

 第二章 文明の冒瀆

 第三章 主な争点

第四章 世紀の大論争―――平和に対する罪の管轄問題

 第五章 審理状況

 第六章 証拠物語

 第七章 判決批判 

第二部 

第八章 天皇問題

 第九章 アメリカ人弁護団   

 第十章 インドの哲人パール判事

 第十一章 荒木被告の見識  

第十二章 解脱した東条被告 

第十三章 大川博士の名演技 

第十四章 マッカーサー元帥論

第十五章 東京裁判の反省と将来への希望

 

復讐としての東京裁判

 

 まず取り上げたいのは、「第二章 文明の冒瀆」の「五、野蛮な報復裁判」の部分である。この節タイトルにある通り、東京裁判は、アメリカを中心にした連合国による日本に対する復讐裁判の意味が込められている。それは、裁判の日程に明確に表れていた。

昭和21年4月29日、連合国は、わざわざ昭和天皇の誕生日に起訴状を準備した。裁判の結果死刑判決を受けた7名の処刑も、わざわざ当時皇太子であった現上皇

と陛下の誕生日に執行している。裁判所の開廷は、昭和21年の53日であるが、翌昭和2253日には「日本国憲法」が施行された。「日本国憲法」という偽憲法は東京裁判と密接な存在である。「日本国憲法」にもアメリカの復讐心が込められていることに注意されたい。

 

被告に対する非人道的な扱い

 

 アメリカの復讐心は日程に現れているだけではない。まず、被告自体に対する非人道的な扱いにも現れていた。菅原は、被告が法廷や巣鴨刑務所でどのような扱いを受けたか、次のように記している。

 

 法廷の内部は、被告の監視はもとより傍聴人の取締りまですべて鉄兜をかぶり、ピストルを帯びたMPによってなされた。刑務所の出入には、厳重なる身体検査が行なわれ、寒中といえども、六、七十歳の老人被告たちを全裸のまま行列させ、耳鼻はもちろん肛門まで厳密に検査し、一時に五名も感冒で入院させたことさえあった。

法廷においても、被告人と弁護人との席を離して交通談話を禁じたため、とっさに打ち合わせることができなかった。……控室における被告と弁護人との面会も最初は自由だったが、途中から二重の金網をへだてて行なわれ、証拠書類を指示しながらの協議打ち合わせの方法がなく、書類の受け渡しもMPの検閲を受けなければならぬことになり、一ばん困ったことは書類の綴じ目の針金をとりはずされるために、数百ページの本がバラバラにされてしまうことであった。……刑務所内において被告らが法廷の準備をしようとしても用紙は制限され鉛筆は1本だけけずって渡されるだけで、権利擁護の上に非常な不自由を感じたのであった。 47

 

傍線部にあるように、日本国家の指導者たちが「全裸のまま行列させ」られるとは、とんでもない話である。連合国とは、本当に非人道的な国々の集まりである。そもそもポツダム宣言第10項では「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし」として、捕虜虐待などの通常の戦争犯罪の裁判のことは要求していたが、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」の裁判のことは全く要求していなかった。それゆえ、いわゆるA級戦犯を裁く法的根拠は全くなかったのである。にもかかわらず連合国は東條英機らを捕えて裁判にかけたのである。だまし討ちである。

更に言えば、少なくとも裁判にかけられた東條ら軍人はいわば捕虜と捉えられるのであろうが、ポツダム宣言で最も重視していた捕虜虐待の罪を連合国は犯していたのである。

裁判における戦いという観点からすれば、法廷において被告人と弁護人との交通談話の禁止や二重の金網を隔てての接見という事実を見るならば、極めて被告側は不利な立場におかれていたことがわかる。鉛筆が一本しか与えられないというのも、ひどい話である。鉛筆の件については、菅原が弁護人を務めた荒木貞夫被告が、次のような二首の歌を詠んでいたという。

    書くことの沢にあれどもままならず 紙もともしく筆は折れぬる

    削りてもまた削りても折れにけり 唯一本の文手かなし茂  

              4748

 

 ウェッブ裁判――日本側の行為だけに焦点を合わせる

 

次に取り上げたいのが、「第五章 審理状況」の「一、ウェッブ裁判」の箇所である。よく指摘されるように、ウェッブは、オーストラリア軍部の命令により、ニューギニアにおける日本軍の行動を調査報告したことがある。つまり、東京裁判で扱う事案について予断を持っていた恐れがあり、裁判官としては不適格な存在であった。

ウェッブは、日本の「犯罪」なるものを裁くためには当然必要となる事情について無視を決め込んだ。米英が日本の移民も植民も拒否し排斥したことだけではなく、中国共産党の蔓延と支那事変との関係まで無視を決め込んだ。裁判所は、「中国あるいはその他の場所における共産主義あるいはその他の思想の存在あるいは蔓延に関する証拠はすべて関連性がない」と決定した。それも当然であった。ウェッブ裁判長は、右隣に座るアメリカのクレーマー少将とは話をせず、左隣に座る梅判事と相談して事を進めた。梅判事は後に中共へ行ったというが、その隣がソ連のザリヤノフ判事であった。

共産主義の蔓延の問題を審理から排除するために、ウェッブはどのような論理を用いたであろうか。

 

ウェッブ裁判長は、「他人が犯罪を犯しているということは、自分の犯罪を軽減する資料にはならぬ》と断じた。しかし国防の如き相対的関係に立つものにおいて、隣国の戦術や行動が無視されて、どうして判断ができようか。ソ連の満洲国境における動静、軍備を度外視して、日本の軍備の侵略性を断ずることは、国防の何物たるかを理解しない者の態度である。   116

 

傍線部がウェッブ裁判長の論理である。日本が行ったことだけを問題にすればいいというわけである。日本の行動の原因となったソ連の行動、中国共産党の行動などは問題にしないというわけである。

傍線部そのままの主張は、今もよく目にするものである。そして、中ソや米国を中心にした連合国側がどういう行動をとったかについては全く問題にせず、ひたすら戦争原因を日本の行動に求めるパターンは、日本の歴史学者に普通に見られる。彼らは、ウェッブの子供たちなのである。

 

七被告の遺骨を奪還した三文字正平(小磯国昭担当)弁護人

 

 次に、同じ第五章の「八、日本人弁護団」の箇所である。題名通り、ここで日本人弁護人について記している。弁護人として最も異彩を放っているのが、三文字正平(小磯国昭担当)弁護人である。菅原は、三文字弁護士について、次のように記している。

 

 私費を投じてあらゆる情報を収集し、アメリカ人弁護人や、判、検事ならびにその補佐者たちと交歓し、七被告荼毘の際は身の危険も顧みず、遺骨の保存に尽力して、遺族を感激させた。しかもいっさい表面に立つことを嫌い、黙々として裏面工作に終始した。

  137

 

 傍線部は、米軍が持ち去った東條等七被告の遺骨の一部を三文字が奪還したことを指している。このことについては、前にふれたことのある太平洋戦争研究会編著『東京裁判の203人』(ビジネス社、2015年)が記している。『東京裁判の203人』では、「コラム2 処刑された7戦犯の遺骨を奪取した3人の男」と「コラム3 3箇所にある処刑7戦犯の墓と慰霊碑」の2か所で触れている。コラム2から重要な部分を引用しよう。

 

 昭和23年(19481223日に処刑されたA級戦犯7名の遺体は、その夜のうちに横浜市西区にある横浜市営久保山火葬場に運ばれ、荼毘に付された。遺骨は米軍が持ち去り、現在にいたるもその所在はわからない。ニュルンベルク裁判で裁かれたゲーリング元帥らナチ戦犯の遺骨が、空中から大西洋にばらまかれたことから、7戦犯の遺骨も太平洋にばらまかれたともいわれている。

 ところが、……小磯国昭被告の弁護人だった三文字正平氏は、早くから7戦犯の処刑情報集めに走っていた。そしてある日、親しくしている米人検事から、死刑執行はクリスマスの直前で、遺体は米軍関係の死体を焼いている横浜の久保山火葬場で荼毘に付されるという情報を得た。

 三文字弁護士は〈何とかなる!〉と膝をたたいた。三文字弁護士は久保山火葬場の向かいにある興禅寺の市川伊雄住職とは懇意だったから、市川師を訪ねて7戦犯の遺骨奪取計画を話し、協力を申し込んだ。    206

 

 三文字の申し出を受けた市川住職は、火葬場の飛田美善場長にも協力を求め、3人で火葬のときに遺骨の一部を持ち出す計画を決めた。計画どおり遺骨を7つの骨壺に収めることに成功したが、アメリカ兵たちに見つかってしまい、遺骨は大半没収されてしまった。だが、細かな骨は火葬場付属の共同骨捨て場に捨てられたので、3人はその骨を拾いに行った。

 

 1225日の深夜、外套を頭からすっぽりとかぶった3人の男が、共同骨捨て場に近づき、深さ4メートルの穴のなかから真新しい骨を次々拾い上げていた。7戦犯の遺骨を奪取する三文字弁護士、市川住職、飛田場長の3人だった。遺骨奪取は成功したのである。

 207

 

 米軍が遺骨を返還していないことも驚きだが、太平洋戦線で戦死した日本兵をゴミのように扱い、その墓標さえつくらなかった米軍だから、驚くことではないのかもしれない。先に見た全裸で被告たちを行列させた行為にも現れていたように、アメリカは、或いは連合国は日本人に対して、本当に非人道的な振る舞いをし続けたのである。

 それは、ともかく、このような遺骨奪還のために危ない橋を渡った弁護士たちが居たことを全く知らなかった。この遺骨奪還があってこそ、興亜観音堂の「七士之碑」など3か所に遺骨があるわけである。

 

 証拠物語――被告になるか証人になるか

 

話を『東京裁判の正体』に戻そう。本書で最も興味を惹かれるのが、「第六章 証拠物語」の部分である。まず、「証拠収集の苦心」の小見出しの下、次のように書きだしている。

 

 本裁判において弁護人側の最も苦労したのは証拠収集の困難であった。……検察側は職権と交通機関を利用して、全国的に証拠の収集を行なうのに対して、われわれ弁護団は自動車のないのはもちろん、汽車に乗るのが命がけで、紙も帳面もない。鉛筆もペンもろくな品はなく、郵便は当てにならず、たまに届くと検閲されているというあんばいで、肝心の食生活さえ思うにまかせず、大なり小なりみな栄養失調にかかっていた時代だった。

 139

 

 証拠収集の大変さが端的に描かれているが、更に、国家の要人を検察側が脅す様が描かれている。「証人か被告か」の小見出しの下、菅原は次のように記している。

 

検察側は要人を呼び出しては「お前は証人になりたいか被告になりたいか」とまず浴びせる。九千万人ことごとくが俘虜だ、日本人は誰でも容疑者だと、いわれても文句のつけようがない敵軍の占領中だ。しかしできるだけ免れたいのが人情の常。「とんでもない、証人で結構です」と答えると「よしそれなら、こちらのいうことを聴け」と薬籠中に収めたと伝えられた。

しかし中には、検事側が、その意を迎えた供述に多寡をくくっていると、さすがに法廷では真実を述べようとする者も現われる。驚いた検事側は「敵性証人」として弾劾するぞと脅かしたこともあった。東大教授の某氏もこの手を食った。  140

 

 最初の傍線部の「被告」になるということは、下手すれば死を意味する。対して、証人になっても、偽証罪を採用していなかったから、嘘でもなんでも言いたい放題であった。真実を証言する方向では外的強制が全く働かない体制にあった。それゆえ、死や留置を恐れるならば、検察官の言うとおり動いてしまうしかない構造にあった。結局、二つの傍線部からも分かるように、被告だけではなく、証人たる日本人も脅迫下にあったのである。いや、傍線部にあるように、実質的に日本は《捕虜収容所》の状態に置かれてしまったのである。本当に、日本人を脅しつけるのに東京裁判は有効な手段だったと言えよう。

 

 多数派判決を実際に書いたのは誰か

 

「第七章 判決批判」の箇所でも驚きの事実が書かれている。「二、ずさん極まる判決」の始まりは次のようになっている。

 

判決は英文で堂々千二百十二ページにわたるもので、日子を要すこと三年、五万ページに及ぶ記録の結論としては、一見まことにふさわしい見事なものである。しかし詳細に検討すれば、実に奇々怪々な判決文である。広田弘毅は軍事参議官(現役の陸海軍大中将に限る)となっており(判決記録二十七ページ四段目)、荒木貞夫は国家総動員審議会総裁(総理の兼任職)となっている。廣田被告が文官でありながら、死刑になったのは軍閥の巨頭と誤解された結果とすれば、大変な問題である。

国家総動員審議会総裁は総理大臣の当然兼任すべきもので、初代の総裁は東條総理であった事を証拠調べの際とくに注意し、検事もそれは荒木が文部大臣時代の国民精神総動員委員長の誤りであることを認め、裁判長もこれを了承したところであった。しかるに肝心の判決文には依然として国家総動員審議会総裁になっているのである。

 

なぜ、広田と荒木の肩書が訂正されなかったのか。不思議な話である。そこで、菅原は、「多数派判事によって下された判決なるものは、公判審理に関係なく、あらかじめ、別途に起草され、用意されていたものでないかを疑うのである」(157頁)と記している。

 

1952年の時点でも判決の理由たる事実と証拠の摘示はなし

 

 第七章の「三、宣告方法の違法」でも驚くべきことが書かれている。極東国際裁判所条例第17条は、「判決は、公開の法廷に於て宣言せらるべく、且つ之に判決理由を付すべし」と記している。しかし、多数派判決だけを宣言し、少数意見の宣告をしなかった。

 それどころか、判決の理由たる事実と証拠の摘示をしなかったのである。パール判事は、195216日、広島弁護士会での演説の中で、ニュルンベルク裁判の場合は三ヶ月目に判決理由書とその内容を発表したのに対して、東京裁判の場合は未だに判決理由が明らかにされていないと述べた。

 

 一九五〇年のイギリスの国際事情調査局の発表によると、東京裁判は結論だけで、理由も証拠もないと書いてある。……東京裁判は判決が終わってから四年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と決定し、私一人は無罪と判定した。私はその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠もなんら明確にしていないのである。おそらく明確にできないのではないか。   159

 

 今日では事実と証拠の摘示が行われているのか知らないが、少なくとも1952年の時点でさえも、行われれていなかったのである。何とも出鱈目な話である。

 

 土産首七個

 

しかし、この出鱈目な手続きで行われた東京裁判の結果、7名が処刑された。7名は、存在しない罪で裁かれ、しかも出鱈目極まりない手続きで有罪とされ、命を失った。第七章の「六、純然たる復讐行為」という節では、単純多数決で運用された東京裁判の理不尽さが浮き彫りにされている。「運命の一票―――五対六」との小見出しの下、菅原は次のように言う。

 

東京裁判十一人の判事たちも、被告らを極刑にすべきや否やについては、さすがに意見がわかれた。木戸、大島、荒木、嶋田は五対六すなわち一票の差で死刑を免れ、広田は一票の差で死刑になったといわれる。しかも広田の死刑反対派五票中三票までは無罪論者であったという。  174

 

 ここの記述を見ると、肩書について誤って認識されていた荒木貞夫も死刑になるかもしれなかったことが分かる。荒木は一票差で死刑を免れるが、広田等は単純多数決で死刑となったのである。しかも、この判決は、ニュルンベルク裁判と比べて厳しいものであった。

 

 ニュルンベルク裁判においては、四人の判事中三人の同意がなければ有罪の判定はできないことになっていた。この比率でいけば東京裁判では八人の同意を必要とすることになる。しかるに、東京裁判の条例では過半数の出席があれば開廷ができ、その出席者の過半数でいかなる決定もできることになっていたので、最小限度六人の出席者があり、かつその場合四人の同意があれば、死刑の判決もでき得る仕組みになっていた。有色人に対する反感か、ドイツと区別した理由はどこにあるか、実に乱暴な規定であった。そこに……公判とは別個に暗躍した判決起草委員会の策動の余地があった。  174175

 

 死刑判決を受けた7人のうち、その判決が不当であると最も言われてきたのが広田弘毅である。何しろ禁固刑も否定する無罪判決が3名も居たのである。

 

 自決していく日本人

 

 しかし、広田自身は、公判の傍聴に皆勤した二人の娘に対して「たとえ無罪になっても生きていたくない」と述べていたという。静子夫人も、裁判開始直後に自決していた。広田の覚悟を後押しするためだった。

 東京裁判の過程を見ていくと、本当に多数の日本人が自決していっている。自裁してしまうのは日本人の特性なのであろうか。

昭和20911日には、未遂に終わったが、東條が拳銃自殺を試みている。912日、杉山元元帥は、東京牛込の第1総軍司令部で拳銃自殺した。夫の自決を知らされた啓子夫人は、仏間に入り、短刀で自決した。

913日には、第一次東條内閣の閣僚であったことから出頭を求められていた小泉親彦元厚相が自刃し、914日には同じ理由から出頭を求められていた橋田邦彦元文相が青酸カリで自殺した。

1120日、関東軍司令官だった本庄繁は自刃した。1216日、近衛文麿元首相は、午前3時から6時の間に青酸カリ自殺した。

 

A級戦犯28名中14名が死亡

 

A級戦犯に話を戻すと、死刑7名以外にも、公判中に病死した者が2名いた。永野修身と松岡洋右である。終身禁固、有期禁固の者は、判決確定と共に巣鴨拘置所に収容されたが、梅津、白鳥、小磯、平沼、橋本はあいついで病死した。結局、28名のうち半数が犠牲になったのである。全く無実であるにもかかわらずである。

 ともかく、有条件降伏したはずの日本に対して、アメリカを中心とする連合国は、条約を全く守らず、国際法を無視した裁判を強行し、多くの人間を殺したり、死に追いやったりした。本当に極悪非道の行いである。彼らは殺人罪、逮捕監禁罪などの罪を犯した。そのことを指摘して、今回のブログ記事を終えることにする。

 

 転載自由