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菅原裕『東京裁判の正体』を読んで――いくつかのエピソード

 佐藤和男編著『世界がさばく東京裁判』などを読む作業を通じて、東京裁判の概要、問題点について一応のところ掴み得た気がしている。今回は、この作業を行う際に参考文献として用いた菅原裕『東京裁判の正体』(1961年初版、2002年復刻版、国書刊行会、)の中から、特にエピソード的に興味深い記述を取り上げていきたい。菅原裕は荒木貞夫被告の弁護人であったから、本書は裁判の当事者の証言という意味もある。

まず、目次を掲げよう。

 

目次

第一部

 第一章 戦争裁判の意義

 第二章 文明の冒瀆

 第三章 主な争点

第四章 世紀の大論争―――平和に対する罪の管轄問題

 第五章 審理状況

 第六章 証拠物語

 第七章 判決批判 

第二部 

第八章 天皇問題

 第九章 アメリカ人弁護団   

 第十章 インドの哲人パール判事

 第十一章 荒木被告の見識  

第十二章 解脱した東条被告 

第十三章 大川博士の名演技 

第十四章 マッカーサー元帥論

第十五章 東京裁判の反省と将来への希望

 

復讐としての東京裁判

 

 まず取り上げたいのは、「第二章 文明の冒瀆」の「五、野蛮な報復裁判」の部分である。この節タイトルにある通り、東京裁判は、アメリカを中心にした連合国による日本に対する復讐裁判の意味が込められている。それは、裁判の日程に明確に表れていた。

昭和21年4月29日、連合国は、わざわざ昭和天皇の誕生日に起訴状を準備した。裁判の結果死刑判決を受けた7名の処刑も、わざわざ当時皇太子であった現上皇

と陛下の誕生日に執行している。裁判所の開廷は、昭和21年の53日であるが、翌昭和2253日には「日本国憲法」が施行された。「日本国憲法」という偽憲法は東京裁判と密接な存在である。「日本国憲法」にもアメリカの復讐心が込められていることに注意されたい。

 

被告に対する非人道的な扱い

 

 アメリカの復讐心は日程に現れているだけではない。まず、被告自体に対する非人道的な扱いにも現れていた。菅原は、被告が法廷や巣鴨刑務所でどのような扱いを受けたか、次のように記している。

 

 法廷の内部は、被告の監視はもとより傍聴人の取締りまですべて鉄兜をかぶり、ピストルを帯びたMPによってなされた。刑務所の出入には、厳重なる身体検査が行なわれ、寒中といえども、六、七十歳の老人被告たちを全裸のまま行列させ、耳鼻はもちろん肛門まで厳密に検査し、一時に五名も感冒で入院させたことさえあった。

法廷においても、被告人と弁護人との席を離して交通談話を禁じたため、とっさに打ち合わせることができなかった。……控室における被告と弁護人との面会も最初は自由だったが、途中から二重の金網をへだてて行なわれ、証拠書類を指示しながらの協議打ち合わせの方法がなく、書類の受け渡しもMPの検閲を受けなければならぬことになり、一ばん困ったことは書類の綴じ目の針金をとりはずされるために、数百ページの本がバラバラにされてしまうことであった。……刑務所内において被告らが法廷の準備をしようとしても用紙は制限され鉛筆は1本だけけずって渡されるだけで、権利擁護の上に非常な不自由を感じたのであった。 47

 

傍線部にあるように、日本国家の指導者たちが「全裸のまま行列させ」られるとは、とんでもない話である。連合国とは、本当に非人道的な国々の集まりである。そもそもポツダム宣言第10項では「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし」として、捕虜虐待などの通常の戦争犯罪の裁判のことは要求していたが、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」の裁判のことは全く要求していなかった。それゆえ、いわゆるA級戦犯を裁く法的根拠は全くなかったのである。にもかかわらず連合国は東條英機らを捕えて裁判にかけたのである。だまし討ちである。

更に言えば、少なくとも裁判にかけられた東條ら軍人はいわば捕虜と捉えられるのであろうが、ポツダム宣言で最も重視していた捕虜虐待の罪を連合国は犯していたのである。

裁判における戦いという観点からすれば、法廷において被告人と弁護人との交通談話の禁止や二重の金網を隔てての接見という事実を見るならば、極めて被告側は不利な立場におかれていたことがわかる。鉛筆が一本しか与えられないというのも、ひどい話である。鉛筆の件については、菅原が弁護人を務めた荒木貞夫被告が、次のような二首の歌を詠んでいたという。

    書くことの沢にあれどもままならず 紙もともしく筆は折れぬる

    削りてもまた削りても折れにけり 唯一本の文手かなし茂  

              4748

 

 ウェッブ裁判――日本側の行為だけに焦点を合わせる

 

次に取り上げたいのが、「第五章 審理状況」の「一、ウェッブ裁判」の箇所である。よく指摘されるように、ウェッブは、オーストラリア軍部の命令により、ニューギニアにおける日本軍の行動を調査報告したことがある。つまり、東京裁判で扱う事案について予断を持っていた恐れがあり、裁判官としては不適格な存在であった。

ウェッブは、日本の「犯罪」なるものを裁くためには当然必要となる事情について無視を決め込んだ。米英が日本の移民も植民も拒否し排斥したことだけではなく、中国共産党の蔓延と支那事変との関係まで無視を決め込んだ。裁判所は、「中国あるいはその他の場所における共産主義あるいはその他の思想の存在あるいは蔓延に関する証拠はすべて関連性がない」と決定した。それも当然であった。ウェッブ裁判長は、右隣に座るアメリカのクレーマー少将とは話をせず、左隣に座る梅判事と相談して事を進めた。梅判事は後に中共へ行ったというが、その隣がソ連のザリヤノフ判事であった。

共産主義の蔓延の問題を審理から排除するために、ウェッブはどのような論理を用いたであろうか。

 

ウェッブ裁判長は、「他人が犯罪を犯しているということは、自分の犯罪を軽減する資料にはならぬ》と断じた。しかし国防の如き相対的関係に立つものにおいて、隣国の戦術や行動が無視されて、どうして判断ができようか。ソ連の満洲国境における動静、軍備を度外視して、日本の軍備の侵略性を断ずることは、国防の何物たるかを理解しない者の態度である。   116

 

傍線部がウェッブ裁判長の論理である。日本が行ったことだけを問題にすればいいというわけである。日本の行動の原因となったソ連の行動、中国共産党の行動などは問題にしないというわけである。

傍線部そのままの主張は、今もよく目にするものである。そして、中ソや米国を中心にした連合国側がどういう行動をとったかについては全く問題にせず、ひたすら戦争原因を日本の行動に求めるパターンは、日本の歴史学者に普通に見られる。彼らは、ウェッブの子供たちなのである。

 

七被告の遺骨を奪還した三文字正平(小磯国昭担当)弁護人

 

 次に、同じ第五章の「八、日本人弁護団」の箇所である。題名通り、ここで日本人弁護人について記している。弁護人として最も異彩を放っているのが、三文字正平(小磯国昭担当)弁護人である。菅原は、三文字弁護士について、次のように記している。

 

 私費を投じてあらゆる情報を収集し、アメリカ人弁護人や、判、検事ならびにその補佐者たちと交歓し、七被告荼毘の際は身の危険も顧みず、遺骨の保存に尽力して、遺族を感激させた。しかもいっさい表面に立つことを嫌い、黙々として裏面工作に終始した。

  137

 

 傍線部は、米軍が持ち去った東條等七被告の遺骨の一部を三文字が奪還したことを指している。このことについては、前にふれたことのある太平洋戦争研究会編著『東京裁判の203人』(ビジネス社、2015年)が記している。『東京裁判の203人』では、「コラム2 処刑された7戦犯の遺骨を奪取した3人の男」と「コラム3 3箇所にある処刑7戦犯の墓と慰霊碑」の2か所で触れている。コラム2から重要な部分を引用しよう。

 

 昭和23年(19481223日に処刑されたA級戦犯7名の遺体は、その夜のうちに横浜市西区にある横浜市営久保山火葬場に運ばれ、荼毘に付された。遺骨は米軍が持ち去り、現在にいたるもその所在はわからない。ニュルンベルク裁判で裁かれたゲーリング元帥らナチ戦犯の遺骨が、空中から大西洋にばらまかれたことから、7戦犯の遺骨も太平洋にばらまかれたともいわれている。

 ところが、……小磯国昭被告の弁護人だった三文字正平氏は、早くから7戦犯の処刑情報集めに走っていた。そしてある日、親しくしている米人検事から、死刑執行はクリスマスの直前で、遺体は米軍関係の死体を焼いている横浜の久保山火葬場で荼毘に付されるという情報を得た。

 三文字弁護士は〈何とかなる!〉と膝をたたいた。三文字弁護士は久保山火葬場の向かいにある興禅寺の市川伊雄住職とは懇意だったから、市川師を訪ねて7戦犯の遺骨奪取計画を話し、協力を申し込んだ。    206

 

 三文字の申し出を受けた市川住職は、火葬場の飛田美善場長にも協力を求め、3人で火葬のときに遺骨の一部を持ち出す計画を決めた。計画どおり遺骨を7つの骨壺に収めることに成功したが、アメリカ兵たちに見つかってしまい、遺骨は大半没収されてしまった。だが、細かな骨は火葬場付属の共同骨捨て場に捨てられたので、3人はその骨を拾いに行った。

 

 1225日の深夜、外套を頭からすっぽりとかぶった3人の男が、共同骨捨て場に近づき、深さ4メートルの穴のなかから真新しい骨を次々拾い上げていた。7戦犯の遺骨を奪取する三文字弁護士、市川住職、飛田場長の3人だった。遺骨奪取は成功したのである。

 207

 

 米軍が遺骨を返還していないことも驚きだが、太平洋戦線で戦死した日本兵をゴミのように扱い、その墓標さえつくらなかった米軍だから、驚くことではないのかもしれない。先に見た全裸で被告たちを行列させた行為にも現れていたように、アメリカは、或いは連合国は日本人に対して、本当に非人道的な振る舞いをし続けたのである。

 それは、ともかく、このような遺骨奪還のために危ない橋を渡った弁護士たちが居たことを全く知らなかった。この遺骨奪還があってこそ、興亜観音堂の「七士之碑」など3か所に遺骨があるわけである。

 

 証拠物語――被告になるか証人になるか

 

話を『東京裁判の正体』に戻そう。本書で最も興味を惹かれるのが、「第六章 証拠物語」の部分である。まず、「証拠収集の苦心」の小見出しの下、次のように書きだしている。

 

 本裁判において弁護人側の最も苦労したのは証拠収集の困難であった。……検察側は職権と交通機関を利用して、全国的に証拠の収集を行なうのに対して、われわれ弁護団は自動車のないのはもちろん、汽車に乗るのが命がけで、紙も帳面もない。鉛筆もペンもろくな品はなく、郵便は当てにならず、たまに届くと検閲されているというあんばいで、肝心の食生活さえ思うにまかせず、大なり小なりみな栄養失調にかかっていた時代だった。

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 証拠収集の大変さが端的に描かれているが、更に、国家の要人を検察側が脅す様が描かれている。「証人か被告か」の小見出しの下、菅原は次のように記している。

 

検察側は要人を呼び出しては「お前は証人になりたいか被告になりたいか」とまず浴びせる。九千万人ことごとくが俘虜だ、日本人は誰でも容疑者だと、いわれても文句のつけようがない敵軍の占領中だ。しかしできるだけ免れたいのが人情の常。「とんでもない、証人で結構です」と答えると「よしそれなら、こちらのいうことを聴け」と薬籠中に収めたと伝えられた。

しかし中には、検事側が、その意を迎えた供述に多寡をくくっていると、さすがに法廷では真実を述べようとする者も現われる。驚いた検事側は「敵性証人」として弾劾するぞと脅かしたこともあった。東大教授の某氏もこの手を食った。  140

 

 最初の傍線部の「被告」になるということは、下手すれば死を意味する。対して、証人になっても、偽証罪を採用していなかったから、嘘でもなんでも言いたい放題であった。真実を証言する方向では外的強制が全く働かない体制にあった。それゆえ、死や留置を恐れるならば、検察官の言うとおり動いてしまうしかない構造にあった。結局、二つの傍線部からも分かるように、被告だけではなく、証人たる日本人も脅迫下にあったのである。いや、傍線部にあるように、実質的に日本は《捕虜収容所》の状態に置かれてしまったのである。本当に、日本人を脅しつけるのに東京裁判は有効な手段だったと言えよう。

 

 多数派判決を実際に書いたのは誰か

 

「第七章 判決批判」の箇所でも驚きの事実が書かれている。「二、ずさん極まる判決」の始まりは次のようになっている。

 

判決は英文で堂々千二百十二ページにわたるもので、日子を要すこと三年、五万ページに及ぶ記録の結論としては、一見まことにふさわしい見事なものである。しかし詳細に検討すれば、実に奇々怪々な判決文である。広田弘毅は軍事参議官(現役の陸海軍大中将に限る)となっており(判決記録二十七ページ四段目)、荒木貞夫は国家総動員審議会総裁(総理の兼任職)となっている。廣田被告が文官でありながら、死刑になったのは軍閥の巨頭と誤解された結果とすれば、大変な問題である。

国家総動員審議会総裁は総理大臣の当然兼任すべきもので、初代の総裁は東條総理であった事を証拠調べの際とくに注意し、検事もそれは荒木が文部大臣時代の国民精神総動員委員長の誤りであることを認め、裁判長もこれを了承したところであった。しかるに肝心の判決文には依然として国家総動員審議会総裁になっているのである。

 

なぜ、広田と荒木の肩書が訂正されなかったのか。不思議な話である。そこで、菅原は、「多数派判事によって下された判決なるものは、公判審理に関係なく、あらかじめ、別途に起草され、用意されていたものでないかを疑うのである」(157頁)と記している。

 

1952年の時点でも判決の理由たる事実と証拠の摘示はなし

 

 第七章の「三、宣告方法の違法」でも驚くべきことが書かれている。極東国際裁判所条例第17条は、「判決は、公開の法廷に於て宣言せらるべく、且つ之に判決理由を付すべし」と記している。しかし、多数派判決だけを宣言し、少数意見の宣告をしなかった。

 それどころか、判決の理由たる事実と証拠の摘示をしなかったのである。パール判事は、195216日、広島弁護士会での演説の中で、ニュルンベルク裁判の場合は三ヶ月目に判決理由書とその内容を発表したのに対して、東京裁判の場合は未だに判決理由が明らかにされていないと述べた。

 

 一九五〇年のイギリスの国際事情調査局の発表によると、東京裁判は結論だけで、理由も証拠もないと書いてある。……東京裁判は判決が終わってから四年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と決定し、私一人は無罪と判定した。私はその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠もなんら明確にしていないのである。おそらく明確にできないのではないか。   159

 

 今日では事実と証拠の摘示が行われているのか知らないが、少なくとも1952年の時点でさえも、行われれていなかったのである。何とも出鱈目な話である。

 

 土産首七個

 

しかし、この出鱈目な手続きで行われた東京裁判の結果、7名が処刑された。7名は、存在しない罪で裁かれ、しかも出鱈目極まりない手続きで有罪とされ、命を失った。第七章の「六、純然たる復讐行為」という節では、単純多数決で運用された東京裁判の理不尽さが浮き彫りにされている。「運命の一票―――五対六」との小見出しの下、菅原は次のように言う。

 

東京裁判十一人の判事たちも、被告らを極刑にすべきや否やについては、さすがに意見がわかれた。木戸、大島、荒木、嶋田は五対六すなわち一票の差で死刑を免れ、広田は一票の差で死刑になったといわれる。しかも広田の死刑反対派五票中三票までは無罪論者であったという。  174

 

 ここの記述を見ると、肩書について誤って認識されていた荒木貞夫も死刑になるかもしれなかったことが分かる。荒木は一票差で死刑を免れるが、広田等は単純多数決で死刑となったのである。しかも、この判決は、ニュルンベルク裁判と比べて厳しいものであった。

 

 ニュルンベルク裁判においては、四人の判事中三人の同意がなければ有罪の判定はできないことになっていた。この比率でいけば東京裁判では八人の同意を必要とすることになる。しかるに、東京裁判の条例では過半数の出席があれば開廷ができ、その出席者の過半数でいかなる決定もできることになっていたので、最小限度六人の出席者があり、かつその場合四人の同意があれば、死刑の判決もでき得る仕組みになっていた。有色人に対する反感か、ドイツと区別した理由はどこにあるか、実に乱暴な規定であった。そこに……公判とは別個に暗躍した判決起草委員会の策動の余地があった。  174175

 

 死刑判決を受けた7人のうち、その判決が不当であると最も言われてきたのが広田弘毅である。何しろ禁固刑も否定する無罪判決が3名も居たのである。

 

 自決していく日本人

 

 しかし、広田自身は、公判の傍聴に皆勤した二人の娘に対して「たとえ無罪になっても生きていたくない」と述べていたという。静子夫人も、裁判開始直後に自決していた。広田の覚悟を後押しするためだった。

 東京裁判の過程を見ていくと、本当に多数の日本人が自決していっている。自裁してしまうのは日本人の特性なのであろうか。

昭和20911日には、未遂に終わったが、東條が拳銃自殺を試みている。912日、杉山元元帥は、東京牛込の第1総軍司令部で拳銃自殺した。夫の自決を知らされた啓子夫人は、仏間に入り、短刀で自決した。

913日には、第一次東條内閣の閣僚であったことから出頭を求められていた小泉親彦元厚相が自刃し、914日には同じ理由から出頭を求められていた橋田邦彦元文相が青酸カリで自殺した。

1120日、関東軍司令官だった本庄繁は自刃した。1216日、近衛文麿元首相は、午前3時から6時の間に青酸カリ自殺した。

 

A級戦犯28名中14名が死亡

 

A級戦犯に話を戻すと、死刑7名以外にも、公判中に病死した者が2名いた。永野修身と松岡洋右である。終身禁固、有期禁固の者は、判決確定と共に巣鴨拘置所に収容されたが、梅津、白鳥、小磯、平沼、橋本はあいついで病死した。結局、28名のうち半数が犠牲になったのである。全く無実であるにもかかわらずである。

 ともかく、有条件降伏したはずの日本に対して、アメリカを中心とする連合国は、条約を全く守らず、国際法を無視した裁判を強行し、多くの人間を殺したり、死に追いやったりした。本当に極悪非道の行いである。彼らは殺人罪、逮捕監禁罪などの罪を犯した。そのことを指摘して、今回のブログ記事を終えることにする。

 

 転載自由

 

 

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佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』を読んで(3)――日本は冤罪で裁かれた

 今回は、佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判』(明成社、平成17)に関する3回目である。今回の課題は、東京裁判という形式は本来成立不能であるが、成立すると仮定したとしても、果たして日本の指導者は戦争犯罪を犯していたのか、というものである。本書を通じて、この問題について整理していきたい。まず、関連する第4章の目次を掲げよう。

 

4章 蹂躙された国際法―――国際法学者による「極東国際軍事裁判所条例」批判

 管轄権なき「見せ物裁判」に反対したウェッブ裁判長   

 「侵攻か否かの決定権は自国にある」(ケロッグ国務長官)

 「平和に対する罪」など存在しない」(フォン・グラーン教授)

 定義なき「侵攻」の濫用を戒めたリファート博士    

 「共同謀議」理論を疑問視したセイヤー教授(ハーバード大学)  

「共同謀議」史観を批判したミアーズ女史

 イプセン教授の「個人責任論」批判

 「不作為犯」理論に反対だったランシング米国務長官  

 「合法的手続きの仮面をかぶった復讐」(マーフィ連邦最高裁判事)    

 「山下裁判」を批判したライシャワー博士     

 「インド政府はパール判決を支持する」(チョプラ教育省事務次官)

 

 

起訴された訴因

 

東京裁判では、いわゆるA級戦犯として28名が起訴された。起訴状の記載順に掲げれば、以下の28名である。

  1. 荒木貞夫……終身禁固刑
  2. 土肥原賢二……絞首刑
  3. 橋本欣五郎……終身禁固刑
  4. 畑俊六……終身禁固刑
  5. 平沼騏一郎……終身禁固刑
  6. 広田弘毅……絞首刑
  7. 星野直樹……終身禁固刑
  8. 板垣征四郎……絞首刑
  9. 賀屋興宣……終身禁固刑
  10. 木戸幸一……終身禁固刑

11、木村兵太郎……絞首刑

12、小磯邦昭……終身禁固刑

13、松井石根……絞首刑

14、松岡洋右……死亡で免訴

15、南次郎……終身禁固刑

16、武藤章……絞首刑

17、永野修身……死亡で免訴

18、岡敬純……終身禁固刑

19、大川周明……「精神異常」で免訴

20、大島浩……終身禁固刑

21、佐藤賢了……終身禁固刑

22、重光葵……禁固7

23、嶋田繁太郎……終身禁固刑

24、白鳥敏夫……終身禁固刑

25、鈴木貞一……終身禁固刑

26、東郷茂徳……禁固20

27、東条英機……絞首刑

28、梅津美治郎……終身禁固刑

 

28名のうち、公判途中で歿した松岡洋右と永野修身、精神異常で免訴となった大川周明の3名を除く25名全員が有罪となり、そのうち東条英樹、武藤章、松井石根、木村兵太郎、板垣征四郎、土肥原賢二、広田弘毅の7名が絞首刑となった。

ここでは、先ず、太平洋戦争研究会編著『東京裁判の203人』(ビジネス社、2015)を参考にして、28名が起訴された訴因とはどういうものだったか、25名はそれらのうちのどの訴因によって有罪となったのか見ていきたい。

 起訴状の上で訴因は、《第1類 平和に対する罪》(第1から36)、《第2類 殺人及び共同謀議の罪》(37から52)、《第3類 通例の戦争犯罪並びに人道に対する罪》(53から55)の3類に区分されていた。重要な訴因を以下に掲げよう。番号の前に「■」を付した訴因は25名のうちの誰かに当てはめられて有罪とされたものである。

 

 《第1類 平和に対する罪》

○共同謀議(15)

1 1928(昭和3)1月1日から1945(昭和20)92日までの期間に、日本が東南アジア、太平洋、インド洋地域を支配下におこうとした共同謀議

 2 同上期間、満洲を支配するための共同謀議

○戦争の計画と準備(617)

 6 同上期間、中華民国に対して行った戦争の計画と準備

 7 同上期間、アメリカ合衆国に対して行った戦争の計画と準備

 8 同上期間、全英連邦に対して行った戦争の計画と準備

 17 同上期間、ソ連邦に対して行った戦争の計画と準備

○戦争の開始(1826)

 18 1931年(昭和6)9月18日、中華民国に対する戦争の開始(満州事変)

 19 1937年(昭和12)7月7日、中華民国に対する戦争開始(日中戦争)

 20 1941年(昭和16)12月7日、アメリカ合衆国に対する戦争開始(太平洋戦争)

 22 同上期日頃、全英連邦に対する戦争開始

 25  ソ連邦に対する戦争開始   (張鼓峰事件)

 26  蒙古人民共和国に対する戦争開始(ノモンハン事件)

○戦争の遂行(2736)

27 1931年(昭和6)9月18日から1945年9月2日までの中華民国に対する戦争

29 194112月7日から1945年9月2日までのアメリカ合衆国に対する戦争

31 同上期間、全英連邦に対する戦争

32 同上期間、オランダ王国に対する戦争

33 1940年12月7日から1945年9月2日までのフランス共和国に対する戦争

35 1938年夏期中のソ連邦に対する戦争 (張鼓峰事件)

36 1939年夏期中の蒙古人民共和国およびソ連邦に対する戦争(ノモンハン事件)

 

 《第2類 殺人及び共同謀議の罪》

 37 194061日から1941128日までの期間にアメリカ合衆国、フィリピン国、全英連邦、オランダ王国及びタイ王国の軍隊と一般人に対する殺人の罪

 39 同上期間、同上各国の軍隊及び一般人に対して、交戦国としての適法なる権利を獲得していないのに行った殺人の罪

 40 1941127日午前755(真珠湾時間)、ハワイ真珠湾のアメリカ合衆国の領土と艦船、航空機に対する攻撃を行い、キッド海軍少将他約4000名の陸海軍将兵及び一般人に対する不法な殺害の罪

 44 1931918日から194592日までの連合国捕虜の大虐殺の罪

 45 19371212日以降、南京市を攻撃して多数の中華民国の一般人と武装解除された兵員を殺害した罪

 51 1939年夏、ハルヒンゴール河流域で蒙古及びソ連邦軍の若干名を殺害した罪

 52 193878月、ハーサン湖区域でソ連邦軍の若干名を殺害した罪

 

《第3類 通例の戦争犯罪並びに人道に対する罪》

53 194112月7日から1945年9月2日までの間、アメリカ合衆国、全英連邦、フランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソビエト社会主義共和国連邦の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反の行為を「頻繁にして常習的に」なすことを「命令し授権し且つ許可すること」を共謀した行為。

54……訴因53にあるそれらの違反行為を現実に「命令し授権し且つ許可し」た行為。

55……戦争の法規・慣例の「遵守を確保しその違反を防止するに適当なる手段を執るべき法律上の義務を故意又は不注意に無視した」ため、訴因53にあるそれらの違反行為を生じさせた行為。

   *『東京裁判の203人』142147頁からの抜粋、また217頁参照。

 

 

有罪となった訴因

 

以上のように28名が起訴された訴因は、355種に及ぶ。そのうち有罪判決を受けた25名は第1類と第3類に属する10の訴因のいずれかで有罪とされた。すなわち、《第1類 平和に対する罪》としては訴因1、272931323335368つの訴因で、《第3類 通例の戦争犯罪並びに人道に対する罪》としては訴因54552つの訴因で有罪とされた。第3類は「通例の戦争犯罪並びに人道に対する罪」とされているが、「人道に対する罪」は日本には該当させようがなく、第3類では「通例の戦争犯罪」だけが有罪とされた。

1類から見れば、訴因1(1928(昭和3)1月1日から1945(昭和20)92日までの期間に、日本が東南アジア、太平洋、インド洋地域を支配下におこうとした共同謀議)は、起訴段階では荒木貞夫から梅津美治郎までの28名全員に該当するとされたが、判決段階では25名のうち松井石根と重光葵を除く23名全員に該当するとされた。訴因27(中国に対する侵略戦争、正確には侵攻戦争遂行)は松井、大島浩、白鳥敏夫の3名を除く22名に該当するとされた。訴因29(アメリカに対する侵攻戦争遂行)、訴因31(イギリスに対する侵攻戦争の遂行)、素因32(オランダに対する侵攻戦争の遂行)は荒木、橋本欣五郎、広田弘毅、松井、南次郎、大島、白鳥の7名を除く18名に該当するとされた。

 ここまで挙げた5つの訴因は多数の者に該当するとされたが、訴因33(フランスに対する侵攻戦争の遂行)は重光と東條英機の2名だけに該当するとされた。また、ソ連関係の訴因35(張鼓峰事件遂行)は土肥原と板垣征四郎の2名に、訴因36(ノモンハン事件遂行)は土肥原、板垣と平沼騏一郎の3名だけに該当するとされた。

3類のうち訴因54(通例の戦争犯罪の命令等)は、土肥原、板垣、木村兵太郎、武藤章、東條の5名が該当するとされた。訴因55(通例の戦争犯罪を防止しなかった不作為の罪)は、畑、広田、木村、小磯、松井、武藤、重光の7名が該当するとされた。

*『東京裁判の203人』148149頁、217頁参照

 

一、平和に対する罪

 

「平和に対する罪」など存在しない

 

しかし、有罪とされた10個の訴因はいずれも成立しないものであった。《第1類 平和に対する罪》に属する訴因1から訴因36までの8つからみると、そもそも、「平和に対する罪」など存在しなかった。

冒頭陳述で、キーナン検事は、不戦条約を根拠に侵攻戦争の違法性を展開し、侵攻戦争は犯罪であると述べた。だが、不戦条約は自衛戦争は認めたうえで侵攻戦争の「違法化」を求めた努力の一環ではあったが、そもそも侵攻戦争を違法化したものではなかった。何しろ、不戦条約の起草者であるのアメリカ国務長官ケロッグは、1928428日、アメリカ議会で《侵攻か否か、自衛か否かの決定権は自国にある》と演説した。そして同年6月23日付で、アメリカ政府は日本を初めとした関係諸国に同趣旨の公文を送達した。これに対して、日本は、1928720日付アメリカ代理公使宛覚書の中で、米国の解釈に賛成であることを明らかにした。

更にイギリス政府も、批准にあたって留保条件を付けた。すなわち、自国領土だけではなく、「我が国の平和と安全のために特別かつ死活的な利益を構成する諸地域」(例えばスエズ運河など)を防衛することも自衛の範囲内とすると宣言した。これに倣って、日本政府も、「満州その他の諸地域」における権益保護の防衛も自衛の一環であるとした。

自衛か否か、侵攻か否かは自国が判断するわけであるから、不戦条約は侵攻戦争を「違法化」したものではなかったわけである。まして、侵攻戦争を犯罪とするものではなかったわけである。

また、仮に不戦条約で侵攻戦争が違法化されたと理解しても、侵攻戦争を国際犯罪とすることはできない。「犯罪の構成要件、それから犯罪者に対する刑罰、あるいは犯罪行為を認定できる機関、そういう必要事項を定めた国際刑事条約が成立して初めて、その中で、これこれの行為は犯罪であると特定した場合にのみ、あるいはそれ同等の慣習法が成熟した場合にのみ、『国際犯罪』は成り立つのである」(179)。不戦条約には「犯罪の構成要件」などが全く記されていなかったから、不戦条約は侵攻戦争を犯罪とするものではなかったと理解するしかないのである。

それゆえ、《第1類 平和に対する罪》に属する訴因1から36までの8つは、全ての被告に当てはまらないのである。

 

「共同謀議」理論は国際法では成り立たない

 

訴因1は、《1928(昭和3)1月1日から1945(昭和20)92日までの期間に、日本が東南アジア、太平洋、インド洋地域を支配下におこうとした共同謀議》であるが、そもそも「共同謀議」理論は国際法には当てはまらない。

 本書(『世界がさばく東京裁判』)は、フランシス・B・セイヤー(ハーバード大学)の言葉を小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫、1995)から次のように引用している。

 

 共同謀議の理論は変則的、地方的な理論であると共に、そのもたらす結果もかんばしからぬものである。羅馬法はかやうな理論を知らず、又それは現代大陸諸国の法典中にもも当らない。大陸の法律家でかやうな理論を聞知している者は稀である》(『東京裁判 日本の弁明』p.148

 

このようにセイヤーは、共同謀議の理論は、変則的・地方的理論で、国際的に成立しないとしている。東京裁判当時も、清瀬一郎弁護人は、1947224日冒頭陳述で、極東国際軍事裁判所条例に共同謀議の定義がないではないかと批判した。そして、極東国際軍事裁判所はアメリカの下級連邦裁判所判例を引用して定義しようとしたけれども、そのようなものを国際裁判所に適用できないと主張した。この点では、ウェッブ裁判長も個別意見書の中で理解を示したという。

 

「共同謀議」など、事実として存在しなかった

 

このように共同謀議理論は国際法の世界では成立しないものであるが、そもそも共同謀議の事実が存在しようがなかった。ウイリアム・ローガン弁護人は、1947225日冒頭陳述において次のように述べた。

 

《侵略戦争を開始し遂行する為の継続的共同謀議と云ふものはありえなかつたと云ふ事は事実を以て立証せられます。その事実とは一九三一年(昭和六年)九月の満洲事変、一九三七年(昭和十二年)七月の支那事変並一九四一年(昭和十六年)十二月の太平洋戦争がそれぞれ勃発した当時の二つの内閣の何れかの閣僚たりし者は、被告の中には居らぬと云ふ事であります。》(『東京裁判 日本の弁明』p.266.)

 

このように、例えば支那事変と太平洋戦争の開始時期において共に閣僚を務めた者は誰もいなかっただけではない。法廷で初めて面識を得た被告たちが多数存在した。共同謀議などあり得ようがなかったのである。

しかし、共同謀議理論の背景には、日本はそもそも侵攻的であるという歴史観があった。この史観に対しては、占領軍総司令部労働委員会顧問のヘレン・ミアーズが批判している。ミアーズは、『アメリカの反省』(1948年)の中で、次のように面白いことを述べている。

 

 《「世界で最も無慈悲な侵略者」である国民が、「二千六百年」もの長い年月、「世界征服」の努力を続けて来て、しかも「絶対不敗」だったのに、真珠湾攻撃の当時になつて、やつと、その小さな島国本土と、ごく僅かな近隣の重要ならざる、所所の小島や朝鮮とで成立した「帝国」になつたというのは莫迦々々しいにも程があるといふものだ。……日本歴史中の事実は、日本国民が天性、侵略的であるという考へには極度に矛盾するのである。》   186

 

 国際法では個人責任論は認められない

 

「平和に対する罪」自体が存在せず、共同謀議が存在しないだけではなかった。「平和に対する罪」が成立すると仮定しても、その国家責任を指導者個人に帰することができるのかという問題があった。そういう例は、これまでなかったからである。だが、1945年夏のロンドン会議で、米代表ジャクソンと英代表ジョウィットは、仏代表のファルコの反対を押し切って個人責任という概念を導入した。ファルコの反対は「侵攻戦争を開始することは、国家にとって犯罪となるかもしれませんが、だからといって、戦争を開始した個々人が犯罪をなしたことにはなりません」(189)というものだった。この反対をジャクソンとジョウィットは強引に押し切り、個人責任を導入したのである。その結果、ニュルンベルク国際軍事裁判所条例第6条と、これに倣った東京国際軍事裁判所条例第6条には、次のように個人責任が規定された。

 

何時たるとを問わず被告人が保有せる公務上の地位、若は被告人が自己の政府又は上司の命令に従い行動せる事実は、何れもそれ自体当該被告人をしてその間擬せられたる犯罪に対する責任を免れしむるに足らざるものとす……    190

 

この第6条の規定に基づき、多くの被告に終身禁固刑が、東條ら7名に絞首刑が言い渡されたわけである。

 

 

 二 「通常の戦争犯罪」

 

「命令し授権し且つ許可し」た事実はない――訴因54関連

        

「平和に対する罪」に続いて、「通常の戦争犯罪」についてみていこう。連合国は、アジア各地で、「通常の戦争犯罪」を犯したとされた者をBC級戦犯として訴追し、そのうち1千余名を処刑した。

東京裁判でも、535455の三つの訴因に総て該当するとして、25名の被告のうち荒木など7名を除く18名を、「通常の戦争犯罪」を犯した者として起訴した。もう一度、訴因53から55を掲げよう。

 

訴因53……194112月7日から1945年9月2日までの間、アメリカ合衆国、全英連邦、フランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソビエト社会主義共和国連邦の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反の行為を「頻繁にして常習的に」なすことを「命令し授権し且つ許可すること」を共謀した。

 ・訴因54……訴因53にあるそれらの違反行為を現実に「命令し授権し且つ許可し」た。

 ・訴因55……戦争の法規・慣例の「遵守を確保しその違反を防止するに適当なる手段を執るべき法律上の義務を故意又は不注意に無視した」ため、訴因53にあるそれらの違反行為を生じさせた。いわゆる「不作為犯」の罪である。

 

東京裁判では、3つの訴因に合致する指導者を、「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」を犯したA級戦犯として訴追した。訴因53は、「通例の戦争犯罪」を犯す共謀を日本の指導者たちが行ったというものだから、さすがに無理があると判断したためか、検察側は最終論告で取り下げたという。

「通例の戦争犯罪」については、東條や松井など10名が有罪とされた。10名のうち土肥原、板垣、木村、武藤、東條の7名は訴因54で有罪とされた。多数派判決は、捕虜の使役を命じたことを訴因54に当てはまるとして、東条英機に死刑を宣告した。

しかし、日本軍に「通例の戦争犯罪」はあったろうが、日本の指導者がそれらの犯罪行為を「命令し授権し且つ許可し」た事実はない。それゆえ、訴因54は当てはまらない。

 

国際法では不作為犯理論は認められない――訴因55関係

 

10名のうち訴因55に当てはまるとされたのは、畑、広田、木村、小磯、松井、武藤、重光の7名である。そのうち、廣田と松井は、「南京事件」を阻止又は拡大の防止をしなかったという理由で訴因55に該当するとされた。「南京事件」当時外相だった廣田は、「南京虐殺」を中止させる措置を執らなかったとして訴因55に該当するとされ、「平和に対する罪」の訴因1の有罪と併せて死刑を宣告された。「南京事件」のとき中支那方面軍司令官だった松井は、訴因1では無罪となりながら、「南京事件」を阻止しなかったとして訴因55に該当するとされ死刑に処せられた。

しかし、「南京事件」が国民党によるでっち上げだったことが明らかになった今日からすれば、廣田も松井もとんでもない冤罪で死刑にされたことになるわけである。また、「南京事件」が存在したとしても、訴因55に規定される所謂「不作為犯」は、極東国際軍事裁判所条例と照らし合わせても犯罪とはならない。条例は「戦争法規または戦争慣例の違反」を犯罪と規定しているが、戦争法規の「遵守を確保しその違背を防止する適当なる手段を執るべき法律上の義務」の「無視」を犯罪とは規定していないからである。

ともかく、戦勝国は、共同謀議理論、個人責任理論、不作為犯理論という国際法で認められていない理論を持ち出して、日本の指導者たちを裁き、処刑又は禁固刑に処していったのである。本当に、東京裁判はデタラメなものであった。そして、本書によれば、その認識は、世界の専門家の間では当たり前のものになっているのである。

 

日本の外務省も認めている「東京裁判の不当性」 

   

なお、本書によれば、外務省も「東京裁判の不当性」は認めているという。平成4(1992)年3月13日、外務省の国際法研究会(月例)で、条約局法規課長の伊藤哲雄氏は、次のように答えたという。

 

東京裁判で個人に戦争責任を追及したが、かういふことは国際法では許されてゐない、東京裁判は間違ってゐたといふ認識がいまや世界中の諸国に定着したので、サダム・フセインに悪い戦争をした責任を個人的に追及しようなどといふ動きは全くありません。》

 

このように外務省でも東京裁判の不当性が認識されているとした上で、本書は「官僚は政府に従う。政府が断固として東京裁判の不当性を訴えるならば、その訴えを裏付ける論理を用意する準備は官僚サイドには既にできているのである」(215)と主張している。いつ、そのような当たり前の勇気を持った政府が、この日本で生まれるのであろうか。生まれなければ、9条②項の削除も解釈転換もできず、粛々と滅亡していくだろうことは十分予測されよう。

 

以上3回にわたって、本書に関して記してきたが、東京裁判の大枠、梗概は理解できた気がする。だが、種々の訴因、特に有罪とされた訴因について、更に明確な認識を持たなければ、東京裁判に関して本当に掴んだことにはならないだろう。さらなる学習が必要ということであろう。

 

 転載自由

 

佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判』を読んで(2)――東京裁判の手続き的な問題

   今回は、佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判』(明成社、平成17年改訂版)に関する第2回記事となる。今回は、東京裁判の手続き的な問題を整理し、東京裁判という形式そのものが国際法違反で本来は成立不能であることを見ていきたい。そして、その形式が成立すると仮定しても、やはり、東京裁判というものは国際法違反の無法な手続きで行われたことを明確化していくこととする。

 まずは、前回の例に倣って、第2章と第4章の細かい目次全部と他の章の関連する目次を示しておきたい。

 

目次

 

レーリンク判事の〈東京裁判〉への総括的批判――はしがきに代えて 佐藤和男

 東京裁判当時のレーリンク判事の反対意見    

第1章 知られざるアメリカ人による〈東京裁判〉批判  

――なぜ日本だけが戦争責任を追及されるのか   

第2章 戦犯裁判はいかに計画されたか――国際法違反の占領政策  

 国際法違反の”精神的武装解除”政策

「戦勝国の戦争犯罪も裁かれるべきだ」(ケルゼン博士)

「戦犯裁判は負けることを犯罪とした」(モントゴメリー子爵)

「国際法という文明は圧殺された」(パール判事) 

「日本の有条件降伏」を認めていたアメリカ国務省

ポツダム宣言に示された日本の「条件」       

連合国の許しがたい背信行為  

「ポツダム宣言」違反の検閲   

裁判の偽善性に悩んだソープ准将  

「極東国際軍事裁判所条例は国際法に基づいていない」     

3章 追及されなかった「連合国の戦争責任」――裁判の名に値しない不公正な法手続

 ハンキー元英国内閣官房長官の憂慮 

 「戦勝国の判事だけによる裁判は公正ではない」(ファーネス弁護人)

 一部グループによる判決に抗議したブレイクニー弁護人

 裁判の公正さを疑うベルナール判事   

 「弁護側に不利な証拠規則だった」(ブリチャード博士) 

4章 蹂躙された国際法―――国際法学者による「極東国際軍事裁判所条例」批判

 管轄権なき「見せ物裁判」に反対したウェッブ裁判長   

 「侵攻か否かの決定権は自国にある」(ケロッグ国務長官)

 「平和に対する罪」など存在しない」(フォン・グラーン教授)

 定義なき「侵攻」の濫用を戒めたリファート博士    

 「共同謀議」理論を疑問視したセイヤー教授(ハーバード大学)  

「共同謀議」史観を批判したミアーズ女史

 イプセン教授の「個人責任論」批判

 「不作為犯」理論に反対だったランシング米国務長官  

 「合法的手続きの仮面をかぶった復讐」(マーフィ連邦最高裁判事)    

 「山下裁判」を批判したライシャワー博士     

 「インド政府はパール判決を支持する」(チョプラ教育省事務次官)

 

 一 国際法違反のニュルンベルク条例

 

 大西洋憲章→カサブランカ会談――国家の無条件降伏の方式の登場

 

 前回記事で述べたように、東京裁判は連合国の戦争犯罪を裁かず日本の「戦争犯罪」または戦争犯罪だけを裁いた。この枢軸国側だけを裁くという考え方は、いわゆる大西洋憲章で登場した。19418月、ルーズベルトとチャーチルは大西洋会談を行い、大西洋憲章を発表した。本書は、この憲章について次のように記している。

 

 一九四一年八月の時点といえば、……アメリカはまだ参戦していなかった。にもかかわらず、イギリスと一緒になってアメリカがドイツ・イタリアに対する戦後処理構想を発表したのだから、奇妙なことではある。その構想とは、連合国による平和が永久的に確立・保障されるようにするため敵国(ドイツ、イタリア)の「武装解除」を行なうという内容で、従来の戦後処理とは大いにその趣きを異にしていた。この「憲章」は英米二カ国の一方的な宣言であり、法的な拘束力があるわけではなかったが、大東亜戦争勃発に伴うアメリカ参戦後の一九四二年(昭和十七年)一月一日に連合国宣言に取り入れられ、連合国の戦争目的を示すものとなった。  7273

 

 大西洋憲章及び連合国宣言で表明された独伊の「武装解除」を行う思想は、19431月、カサブランカ会談では更に明確な形をとることとなった。チャーチルと会談したルーズベルトは、この会談で、国家の無条件降伏という全く新しい占領方式を表明した。

 

 《[無条件降伏政策は]この戦争の最終目標をドイツ、イタリア、及び日本の無条件降伏に求めることであり、世界平和を合理的に保障することを意味する。無条件降伏はこれら三国の人民の破砕を意味するものではなく、他国の征服と屈従に基礎をおく、これら三国の哲学そのものを破砕することである。》 73

 

 「他国の征服と屈従に基礎をおく、これら三国の哲学」とは、ドイツにも当てはまるだろうが、むしろソ連やルーズベルトの米国にこそ当てはまるものである。それはともかく、枢軸国とは一切和平交渉を行わずに降伏させ、一方的に枢軸国の国家改造を行おうというのである。これが国家の無条件降伏方式である。

国家の無条件降伏方式は、五百旗頭真『米国の日本占領政策』(上下)によれば、4つの柱からなる。

 

 第一は、敗者の発言権を全て奪い去ること。勝者が何でもできる権利を確保すること。そために第二に、敵国の長期無力化、半永久的武装解除を行うこと。第三には、今後戦争を起こすことができないようにその国の社会的基盤を完全に破壊すること。……そして第四に、これらの政策を実行するために長期占領して徹底的な改革を行なうこと。

 これらのことを実現するための国際法上の名目として、相手国の無条件降伏が必要だと連合国は考えたのである。    74

 

 4つの柱、特に第一の柱を見るならば、国家の無条件降伏方式とは、勝者にフリーハンドを与えるものであり、戦争をルールあるものから無法なものに転化するものであると見なければならない。したがって、2番目の傍線部にある「国際法」をまさしく破壊するものだったといえる。文明から野蛮への後退である。

 

 無条件降伏政策の一環として戦犯裁判政策が現れた

 

 カサブランカ会談で現れた無条件降伏政策の一環として、戦犯裁判という考え方は忽然と現れた。すなわち、カサブランカ会談が終わったあと、1943年2月11日、イギリスのチャーチルは下院で「罪ある人々に対して法の裁きが加えられなければならない」と演説した。次いで2月13日、アメリカのルーズベルトは「罪ある野蛮な指導者層に刑罰を加える方針である」と演説した。

19431030日、ドイツ対象の「モスクワ宣言」が発表された。この宣言には、「『通例の戦争犯罪』を犯したドイツ軍将兵、ナチス党員をその犯罪がなされた国に引き渡し、その国の裁判によって処罰する旨が明記されていた」(75)

ところで、1920年、常設国際法裁判所規定作成のための法律家諮問委員会は、戦勝国も敗戦国もともに公平な裁判所で裁判しなければならないという希望を表明していた。しかし、モスクワ宣言は、連合国側に対する裁判を記さず、ドイツ側に対する裁判だけを記していた。そこで、著名な国際法学者であるハンス・ケルゼン(アメリカ・カリフォルニア大学)は、モスクワ宣言を批判した。戦争犯罪人の処罰は復讐であってはならない、国際正義の行為であるべきだから、敗戦国も戦勝国も、ともに裁判を受けるべきであると説いた。

しかし、194524日から11日まで開かれたヤルタ会談で、連合国は、連合国の戦争犯罪人を除く、「すべての戦争犯罪人を正当かつ迅速に処断する不動の方針」を決定したのである。

 

「軍事裁判に関する国際会議」(ロンドン会議)、ニュルンベルク条例

 

 そこで、ドイツの無条件降伏後50日ほど経った1945626日、米英ソ仏の4カ国代表はロンドンで「軍事裁判に関する国際会議」を開いた。出席者は、米国連邦最高裁判事ロバート・H・ジャクソン、英国法務長官ジョウィット、ソ連最高裁副長官I・ニキチェンコ、仏大審院判事ロベール・ファルコである。

 フランスなどは戦争裁判そのものに消極的だったが、アメリカの主導の下、8月8日、ロンドン会議は合意に達した。「欧州枢軸諸国の重大戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定)が締結され、国際軍事裁判所憲章すなわちニュルンベルク条例が起草された。この憲章第6条は、「次に掲げる諸行為又はそのいずれかは、本裁判所の管轄に属する犯罪とし、これについては個人的責任が成立する」と規定した。従って、ニュルンベルク裁判は、従来から存在した「通例の戦争犯罪」以外に以下のような処罰を行うことになった。

 

 ➀平和に対する罪、人道に対する罪を戦争犯罪とする

➁枢軸国指導者は即決処刑ではなく、国際軍事裁判所方式によって処罰される。

➂国家が犯したこれらの犯罪について、政府の責任者など戦争指導者と目される個人が刑事責任を追及される。

➃「共同謀議」罪を導入する     78

 

4点ともとんでもなく違法なものであり、国際法に反するものである。特に➀は、刑法の基本原則の一つである遡及的立法の禁止に反するものであり、最も違法性の高いものである。➁③は、敗戦国の指導者の個人責任だけを問うものである。国家の行為について指導者の個人責任を問う国際法は存在しないし、まして敗戦国の指導者の責任だけを問うのは公平性を欠くものである。➁③も明確に国際法に反するものである。

この➁③の点は、連合国の軍人たちの気持ちを複雑にさせたようだ。例えばイギリスのモントゴメリー元帥は、「ニュルンベルク裁判は、戦争をして負けることを犯罪とした。敗者側の将軍たちは裁判に付され、絞首刑に処せられるというわけだからだ」と声明を発したという。

 ➃は一番違法性が低いかもしれないが、「共同謀議」罪は英米法系にのみ存在する概念であり、普遍的な考え方にはなっていない。➃も国際法違反といえよう。

 

 二 国際法違反の日本占領政策

 

 以上のように、ドイツは無条件降伏させられ、国際法違反のニュルンベルク裁判で指導者たちが裁かれた。連合国は、というよりもアメリカは、日本にもドイツ方式を適用しようとしていた。日本を無条件降伏させ、ニュルンベルク裁判と同様の裁判で日本の指導者たちを裁判しようと考えていた。

 先に言ってしまえば、連合国あるいはアメリカは、ポツダム宣言に無条件降伏を規定できなかった。にもかかわらず、ポツダム宣言さえも守らず日本の占領を無条件降伏の思想に基づき行った。そして、無条件降伏の考え方に基づき、ニュルンベルク条例に倣って「極東国際軍事裁判所条例」をつくり、その条例に基づき東京裁判を執り行ったのである。

 

 ポツダム宣言は「日本の有条件降伏」を規定している

 

 では、ポツダム宣言はどういうものだったか。どのような経緯で出来上がっただろうか。ドイツに対して考えられた無条件降伏の思想に基づく戦犯裁判政策を、連合国は、194311月のカイロ宣言で、日本にも適用することを公式に声明した。

 

 ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石中華民国主席による同宣言には、この戦争は「邪悪な」日本を罰するための連合国による「聖戦」だとする考え方に基づき、「三大同盟国は、日本国の侵略を制止し且つ之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり」と明記されてあり、その末項には、「この戦争では日本の無条件降伏をもたらすに必要な重大、かつ長期の行動を続行すべし」と記されていた。この時点では、ルーズベルト大統領はあくまで日本に無条件降伏を求めていた。  84

 

 しかし、1945412日、ルーズベルトは死亡する。トルーマン副大統領が代わって大統領になるが、新大統領の下、グルー国務次官らの知日派による有条件降伏路線と、ラティモア、マーシャル参謀総長ら左派(中国派)による無条件降伏路線とが争った。結局、72日、陸軍長官スチムソンは、「対日計画案」を提出し、条件付降伏案を示した。これが726日付宣言すなわちポツダム宣言となった。

 

 台湾、千島、樺太を取り上げたポツダム宣言第8項は国際法違反

 

 では、ポツダム宣言はどういう条件を規定していたか。そして、その条件は果たして守られたであろうか。本書は、菅原裕『東京裁判の正体』をそのまま引用して説明している。菅原は、まず、宣言の結果、「日本国の義務(連合国側の権利)」を次のように10項目に整理し、適宜評価を加えている。長くなるが、興味深いので引用しておこう。

 

➀「日本国国民ヲ欺罔シ誤導シテ世界征服ノ虚ニ出デシメタル者ノ権力及ビ勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」(第六項)--本項は各個人について具体的にいうものであること明らかであるから一般的、概括的に指定した追放処分の如きは本項の趣旨を逸脱した、権利の濫用ともいうべき不法な行為であったことはいうまでもない。

②「連合国ノ追ッテ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ、吾等ガ茲ニ指示スル根本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ」(第七項)――本項が諸地点と明記せるにかかわらず、連合国軍は、日本の全領域を占領した。これ明らかに本条違反であった。

③「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベシ」(第八項)

④「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及ビ四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ極限セラルベシ」(第八項) )―本項はカイロ宣言ならびにヤルタ協定の実施として日本より台湾、樺太、千島を剥奪したものであるが、日本が本来領有し、もしくは堂々たる講和条約によって取得しすでに数十年にわたり国際的に公認せられているこれらの島嶼を一方的宣言や秘密協定によって奪い去ることは明らかに国際法の蹂躙であり、かくの如く戦勝国が無制限に過去にさかのぼっていっさいの公認されている現実を否認するとすれば、いずれの時にか国際秩序の安定があり得るであろうか。またこれは一九四一年八月英米が宣言した、大西洋憲章第二項の「関係諸国民の自由に表明せる希望と一致せざる、領土的変更の行わることを欲せず」に違反するものである。   8687

 

 引用途中だが、①について菅原は、一般的、概括的に行われた公職追放はポツダム宣言違反の不法行為だとしている。②については、やはり、第7項は部分占領の立場なのに、占領軍は全面占領を行ったから、この点でもポツダム宣言違反だという。私も、『戦後教育と「日本国憲法」』(1992年、日本図書センター、現在は学術出版会から発行)の中で、ポツダム宣言の本来の立場は部分占領であると述べたことがある。

 ③④についていえば、菅原は第8項自体が国際法に違反するものだとする。傍線部に注目すれば、菅原のいうことは明らかに正しい。大東亜戦争にしろ、太平洋戦争にしろ、いずれにしても、そのはるか以前に台湾、千島、樺太が日本領土たることは確定していたことであった。特に、千島は、戦争も行わず平和的な外交交渉によって日本のものと定められた領土である。にもかかわらず、ポツダム宣言は台湾、千島、樺太を日本から奪い、更には「日本が本来領有」する島々の一部をも取り上げる可能性を記していたのである。

しかも、台湾などを取り上げる根拠が、カイロ宣言という、成立しているかも怪しまれている連合国側の一方的な宣言であり、ヤルタ協定という秘密協定であってみれば、なおさら、このポツダム宣言第8項は国際法に反したものと言えよう。

 

 東京裁判はポツダム宣言にかなっていたか

 

 本書による菅原本からの引用を続けよう。

 

 ⑤「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラル」(第九項)

 ⑥「吾等ノ捕虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳格ナル裁判ガ行ハルベシ」() ――本項に関しては東京裁判において二つの点で問題になった。一つはいわゆる「平和に対する犯罪」なるものはポ宣言発表当時、戦争犯罪の概念に入っていたかどうかということで、他はチャーター[極東国際軍事裁判所条例]の内容その他東京裁判のやり方は「厳格ナル裁判」であるかどうかということであった。

 ⑦「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障障礙ヲ除去スベシ」(第十項) ――……「主権在民」の日本国憲法を強要制定せしめたことは、本条項を逸脱し、日本国民をして義務なき事を行わしめたというべきである。

 ⑧「日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲナスコトヲ可能ナラシムル虞アル如キ産業ハ許サレズ」(第十一項)

 ⑨「日本国政府は直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し」(第十三項)――無条件降伏はカイロ宣言には日本国とあったが、本項によって日本国軍隊に変更されたことはまことに明瞭である。

 ⑩「右の行動における同政府の誠意に付適当かつ充分なる保証を提供せんことを同政府に対し要求す」(第十一項)     8788

 

 この6項目のうち、注目されるのは当然⑥である。菅原は、とりあえず、「平和に対する罪」が事後法ではないかということ、極東国際軍事裁判所条例及び実際の東京裁判のやり方が法にかなっていたかということを問題点として挙げている。要するに、東京裁判がポツダム宣言に適ったものだったかを問題にしているのである。

 

 菅原裕による「日本国の権利(連合国の義務)

 

 ポツダム宣言の結果、日本国は義務を負うとともに権利を持つことにもなった。それを菅原は「日本国の権利(連合国の義務)」として8項目に整理している。

 

 ➀「”カイロ宣言”ノ条項ガ履行セラルル」――第八項の結果、同宣言中の「右連合国は自分のために、なんらの利得をも求めるものに非ず。また領土拡張のなんらの念をも有するものに非ず」の個所は日本の利益のために援用し得るものである。ゆえにベルサイユ条約による第一次世界戦争以後日本が取得したる島嶼や、台湾、澎湖島は盗取したのではなく、正当なる日清講和条約により取得したものなることが判明したならば、この後段の剥奪措置が適当であるかどうかの再検討や原状回復措置も後日に残ることになる。いわんやヤルタ秘密協定による千島、樺太の奪取の如きは明らかに本条項と抵触するもので当然無視さるべきものと信ずる。

 ②「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且ツ生産的ナル生活ヲ営ム機会ヲエシメラルベシ」(第九項) ――ソ連領内に移送された日本軍人及び一般人は五十七万五千人に及んでいる。かくのごときはたんにソ連一国の不信はいうまでもなく、連合国全体の本条約違反というべきである。

 ③「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ズ」(第十項) ――占領統治の過酷は本条項違反たるものが多かったが、占領憲法の強要の如きは、その最たるものであった。当時わが政府も国会も一片の抗議さえ出し得ないほど奴隷化されていた。

 ④「言論、宗教及ビ思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」(第十項) ――各般の占領政策は完全に本項に違反したことは多言を要しない。

 ⑤「日本ハ其ノ経済ヲ支エ且ツ公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ」(第十項)  

 ⑥「右目的ノ為メ原料ノ支配ハ許サザルモ、ソノ入手ハ許可セラルベシ」(第十一項)   

 ⑦「日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ」(第十一項)  

 ⑧「前期諸目的ガ達成セラレ、且ツ日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従イ平和的傾向ヲ有シ、且ツ責任アル政府ガ樹立セラルルトキハ、連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」(第十二項)     8990

 

 注目されるのは①から④である。①では、「日本国の義務」の④項で記していた主張をさらに強めている。千島、樺太は言うに及ばず、台湾・澎湖島だけではなく、第一次大戦以後に取得した島々についても、再検討や原状回復措置が考えられるとしている。②では、ソ連によるシベリア抑留などの措置は、ポツダム宣言第9項違反だとしている。

 ④では、いうまでなく占領軍は、当地の全般において言論の自由などの基本的人権を全く尊重せず、ポツダム宣言の第十項に違反していたという。そればかりではなく、占領憲法の強要など、日本民族の奴隷化または民族殲滅の統治も多かったとしている。粛々と自殺に向かう現代日本を見ていると、連合国は「日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ、又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有」していたのではないか、と考えてしまわざるを得ないこの頃である。

 

 連合国の許しがたい背信行為――有条件降伏を無条件降伏に読み替えていく

 

 ポツダム宣言について興味深い指摘をしているので菅原についてみてきたが、話を進めよう。ポツダム宣言自体、特に第8項などが国際法に違反しているのではないかと思われる点があるが、連合国は、このポツダム宣言さえもないがしろにする背信行為を重ねていく。

 

 ポツダム宣言は、曲がりなりにも有条件降伏を規定した文書である。それゆえ、日本政府は、ポツダム宣言を受諾した時点では、「連合国の戦後処理がポツダム宣言の「条件」を忠実に履行するよう監視し、そうでな場合には厳重に抗議すべきだと考えていた」(91)。 

ところが、9月2日に結ばれた休戦協定を連合国は意図的に「降伏文書」と言い換えた。さらに、9月6日、アメリカ政府は、「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサー元帥への通達」を出す。その中にとんでもない文言があった。「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである」とするものである。

 

「降伏文書」にサインし、日本側が武装解除を始めた途端、アメリカは対日姿勢を急変させた。「日本政府は無条件降伏をしたのだから、占領政策を遂行する上で、日本政府の権利に配慮する必要など全くない」と言い放ったのである。正式な国際条約を踏みにじる許しがたい背信行為と言えよう。  

 この通達を受け取ったマッカーサー元帥は、九月十五日、「日本政府とマッカーサー占領行政をめぐって交渉しようとしている印象を与えるニュースを配信した」という理由で、発行停止処分を科した同盟通信社の業務再開を許可するにあたって、次のような声明を発表した。

 

 《マッカーサー元帥は、連合国はいかなる点においても日本国と連合国を平等とみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。日本は、文明諸国間に地位を占める権利を認められていない敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に対して命令する。交渉はしない。》            92

 

 「日本は、文明諸国間に地位を占める権利を認められていない敗北せる敵である」とする声明はとんでもないものである。国際法を破壊する声明である。このとんでもない声明を聞いて日本政府は驚いた。特に、外務省の萩原徹条約局長は次のように反論した。

 

 日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないという、そういう国として無条件降伏したわけではない》(佐藤和男「東京裁判と国際法」、『大東亜戦争の総括』p.207)

 

 萩原は、GHQの怒りを買って左遷されてしまう。

 

 ポツダム宣言違反の検閲

       

 そして919日?、GHQは、「文明諸国間に地位を占める権利を認められていない敗北せる敵」である日本人に対して、「日本に対するプレス・コード」を発令し30項目の検閲指針を示し た。これは、第10項で「言論の自由の尊重」を示していたポツダム宣言に完全に違反する行為である。    *「30項目の検閲指針」はまだそろっていないし、そもそも表に発表されていないので、抹消線を引いた。 10月19日記

検閲は「検閲制度への言及」を厳禁したうえで実施されたので、検閲が行われていることを国民は知ることができなかった。日本のジャーナリズムは、完全に占領政策批判の精神を完全に放擲させられた。例えば、田岡良一が訪米しケルゼンと対談した際、ケルゼンが「国を挙げて無条件降伏した」という俗説を笑ったことを会見記に書いたところ、原稿を依頼した朝日新聞は、占領政策批判と見されることを恐れ、自主的に掲載を見送った。検閲を始めると共に、1945922日、アメリカ政府は「降伏後における米国の初期対日方針」を公表した。この文書の第一部「究極の目的」には、日本占領の目的が次のように記されている。

 

  イ、日本国が再び米国の脅威、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にすること。

ロ、……他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示されたる米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を、究極において確立すること。……》 95

 

このように、アメリカによる占領の究極目的とは、第一に日本の弱体化である。第二にアメリカの目的を支持する従属政権の確立である。この究極の目的を果たすために、「民主化」「非軍事化」を名目として、神道指令、歴史・地理・修身の廃止、占領政策を支持するような歴史・社会科教育の導入、日教組の結成促進、財閥解体と労働組合の結成促進などの政策を打ち出した。その総仕上げが「現行憲法」の強制であった。

 つまり、アメリカは「ポツダム宣言」に違反して、実質的な「無条件降伏」政策を日本に強要したのである。もちろん、東京裁判もポツダム宣言に反するものであり、実質的な「無条件降伏」状態に日本人を追い込んだからこそ実施できたことであった。

 

 三、東京裁判の設定

 

 さて、東京裁判成立までの過程を見ていこう。早くも、816日、マーシャル陸軍参謀総長は、マニラのマッカーサー宛に、ドイツのニュルンベルク裁判の例に倣うように指示する通達を発した。無条件降伏したドイツと異なり、「日本政府には、国際法上『厳格なる』裁判でなければ、拒否する権限があったにもかかわらず、そのような違いは初めから無視されていたのである」(96)

 

 東條英機らの逮捕と戦争犯罪周知宣伝計画

 

 以後、東京裁判の根拠とされた「極東国際軍事裁判所条例」成立までの経過を年表風に記そう。

■マッカーサー到着以前 

 ・824日、日本の戦争犯罪人に対する基本政策「SWNCC57/1」をアメリカ政府が策定

 ・826日、バーンズ国務長官が、ワイナント駐英大使とマッカーサー司令官に伝達

  ――SWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)が、国際軍事裁判所条例6条の規定する「重大戦争犯罪人」概念にあてはまる日本の重大戦争犯罪人リストを製作中であること。

 ・8月29日、「連合国戦争犯罪委員会」が極東国際軍事裁判所の設置に関して勧告。

 ■マッカーサー到着以後

 ・830日、マッカーサーは厚木に到着したその日、対敵諜報部エリオット・ソープ准将らに、「平和に対する罪」を犯したとされる重大戦争犯罪人の逮捕を命令。

  *降伏文書の調印を済ませないうちに、戦争犯罪人の逮捕を指令したことに注意

 ・9月6日、アメリカ政府は、「対日初期降伏政策に関するステートメント」を発表。

  ――戦争犯罪人の逮捕を日本政府に通告

 ・911日、GHQ法律部は、東條英機ら39名を戦争犯罪容疑で逮捕。

 ・930日、国際法の権威、信夫淳平は、国際法学者は、連合国側の国際法違反にも公平に目を注ぐべきだと論文に書いた。「我国における国際法の前途」『国際法外交雑誌』4534号、昭和213月、に掲載予定であったが、検閲に引っ掛かり、削除される。

 ・102日、戦争犯罪周知宣伝計画を開始した。

12月2日、GHQは、新たに59人の逮捕命令を発表した。平沼騏一郎、広田弘毅をはじめ、陸海軍、政財界のトップクラス。72歳の元帥、梨本宮守正王殿下も。

 ・128日、「太平洋戦争史」の新聞各紙への掲載開始

  129日、ラジオ番組「真相はかうだ」の放送開始(10週連続)  96102

 

上記の戦争犯罪周知宣伝計画によって、日本は犯罪国家なのだから、広島、長崎に原爆投下されても、無差別爆撃されても、指導者が処刑されても仕方が無いと日本人に思わせていった。

その後の経過を示せば、次のようになる。

 

 ・19451216日から米英ソ三国外相会議、モスクワで。1226日締結。

  「最高司令官ハ日本降伏条項ノ履行、同国ノ占領及ビ管理ニ関スル一切ノ命令並ビニ之ガ補充的指令ヲ発スベシ」

 ・1946119日、モスクワ協定に基づき、マッカーサーは、連合国軍最高司令官一般命令第一号「極東国際軍事裁判所設置に関する連合国軍最高司令官特別宣言」を発布

  同時に、「極東国際軍事裁判所条例」を制定・公布  102103

 

 極東国際軍事裁判所条例の合法性を審査すべき

 

 この極東国際軍事裁判所条例に対しては、東京裁判当時のレーリンク判事は、反対意見書の中で、その合法性を審査する権限を極東国際軍事司法裁判所が持つべきだとした。審査するならば、裁判所の管轄権はポツダム宣言によって限定されていると見るべきであり、「今次の戦争」についてのみ管轄権をもつと主張した。したがって、太平洋戦争(日本側名称は大東亜戦争)についてのみ審査すべきであり、ノモンハン事件などは管轄外であるとした。

 管轄権の問題は、犯罪の種類に関しても存在する。極東国際軍事裁判所条例では、極東国際軍事裁判所の管轄権が「通例の戦争犯罪」、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」に及ぶものとした。そして、極東国際軍事裁判所は、素因の中に「平和に対する罪」が入っているものだけを裁くとした。

 しかし、当時の国際法上では、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は存在しないものであった。そこで、1946年5月13日、清瀬一郎弁護人は、裁判所には「人道に対する罪」、「人道に対する罪」の管轄権はないと主張した。清瀬の主張の骨子は次のようなものであった

 

1、本裁判所はポツダム宣言第10項に規定ある戦争犯罪人のみの管轄権

   2、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、宣言の発せられた726日の時点で戦争犯罪とは考えられていない。

   3、戦争を始めること(「平和に対する罪」)は、当時、戦争犯罪ではなかった。

   4、日本は有条件終戦であり、連合国も宣言を守る義務に拘束される。

   5、不戦条約は、侵攻戦争を非難しているが、犯罪とはしていない。

   6、連合国は、近時の戦争の目的ひとつは国際法の尊重だという。ならば、国際法上の「戦争犯罪」の範囲を逸脱することはできない。     167168

 

この清瀬の動議に対して、5月17日、ウェッブ裁判長は却下した。「却下の理由は将来闡明する」としていたが、説明は全くなされなかった。しかし、実は、クイーンズランド首席判事だったウイリアム・ウェッブは、1945626日、豪州政府に対し、東京裁判に反対していたのである。だが、裁判長としてはそれは出来ない相談であった。

そして、1948114日、判決言い渡しの時、7か国の判事による「多数派判決」は、「極東国際軍事裁判所条例とこれに基づく犯罪の定義は『本裁判所にとって絶対的でありこれを拘束するものである』から、たとえ条例が国際法に合致していようがいまいが、我々判事はマッカーサー司令官が定めた条例を絶対視する」(169)と述べた。

 しかし、「極東国際軍事裁判所条例」は、特に時期と犯罪の種類の点で、国際法に違反した代物であった。本来、日本政府には、この条例が国際法に適合しているか否か審査し、適合していないならば、条例に基づく裁判を拒否する権限があったはずである。ところが、「マッカーサーの日本『国』無条件降伏説にたぶらかされていた日本政府や、検閲によって言論の自由を奪われていた日本国民は抗議するすべもなかった」(104)のである。

 

四、実際に行なわれた裁判手続きのおかしさ

 

 日程に現れた復讐としての東京裁判

 

このように国際法に違反する「極東国際軍事裁判所条例」に基づき、東京裁判は強行されていく。昭和21(1946)年2月15日、GHQは裁判官を任命した。裁判長には、ウィリアム・ウェッブを任命した。4月29日、わざわざ昭和天皇の誕生日に、起訴状準備小委員会(英国のコミンズ・カー委員長)が起訴状を準備公表した。ここに、東京裁判がアメリカ又は連合国による日本に対する復讐裁判であったことが端的に示されている。東京裁判の結果死刑判決を受けた7名の処刑も、わざわざ当時皇太子であった現上皇陛下の誕生日に執行している。

話を進めれば、53日、市ケ谷台で、極東国際軍事裁判所が開廷した。ちなみに、翌年53日には「日本国憲法」が施行されている。「日本国憲法」という偽憲法は東京裁判と密接な存在であり、「日本国憲法」にもアメリカの復讐心が込められていると捉えられよう。それをありがたがっている左翼やリベラルとは、本当におかしな存在である。本書を読んでよけいにそう思うようになった。

54日、公判二日目、ジョゼフ・キーナン首席検事(アメリカ人)は、起訴状を朗読した。キーナンは、被告に対して「彼らは、文明への宣戦布告をした」と断罪した。本書によれば、欧米諸国は自分達を「文明」の担い手とし、文明化を自分たちの使命と見ていた。フランスは「文明教化の使命」といい、アメリカは「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニー)といい、イギリスは「白人の責務」と呼んできた。この「文明」に逆らったことが日本の「罪」だったのである。言葉を足せば、非白人のくせに白人の「文明」に対抗したこと、非白人のくせに、日本人のくせに白人に勝ちかかったことが「罪」だったのである。

 

被告には戦勝国から誰も選ばれていない

               

 ともあれ、極東国際軍事裁判が始まったが、その法手続きは、まず「被告の選定」において問題をはらんでいた。

実は、極東国際軍事裁判所条例第1条は、「極東における重大戦争犯罪人」を裁くと書かれている。「日本の重大戦争犯罪人」とされていないのである。したがって、理論的には、極東地域で戦争犯罪を犯した連合国側の人間も被告席に座らせることが可能であった。裁判の公正さを求めるならば、連合国の人間も裁くべきであったこととなる。しかし、誰一人、被告席に座ることはなかった。法手続き上の第一の問題は、敗戦国の人間だけが被告とされていることである。

 

裁判官の構成・適格性

 

第二の問題は、裁判官の構成及び適格性の問題である。検事も裁判官も全て戦勝国の人間から選ばれた。せめて裁判官だけでも、中立国あるいは日本からも選ばれるべきだったろう。また、「国際軍事裁判」を称していながら、裁判官の中に国際法に詳しいものが一人も居なかったことも問題である。インドのパール判事やオランダのレーリンク判事は、東京裁判の後には国際法の専門家になっていくが、当時はそうではなかった。

専門的な学識の点に目をつぶるとしても、個々の裁判官の適格性も問題であった。「アメリカ代表マイロン・クレーマー少将は、真珠湾攻撃の責任に関する法書簡を大統領に提出していた。フィリピンのハラニーヨ判事も、日本軍の捕虜の経験があった。……オーストラリアのウェッブ裁判長もまた、オーストラリアの戦争犯罪委員として、ニューギニアにおける日本軍の行為を調査した経験があった」(152)

係争事件に事前に関係した人は、当該事件の裁判官になる資格がないのは、法治国家に共通の原則である。従って、アメリカ、フィリピン、オーストラリアを代表する3名の判事は明確に不適格であった。ウェッブ裁判長については、オーストラリアの高裁判事ブレナンが注意を喚起していた。

弁護側は、ウェッブらの裁判官の忌避を申し立てた。すべて理由を明示されることなく、却下された。判決後、昭和231948)年11月、ジョン・ブラナン弁護人らは米国連邦最高裁判所に対して、「人身保護令適用のための訴願」を提出した。そのなかで、次のように要求した。

 

  《五、裁判所の判事達は全部日本と戦争した国の国民であり、各国政府が日本は侵略戦争をしたとの政治的決定を宣言している以上、判事達は公平無私の見解をとる事はできない。

   六、審理の冒頭、原告達は裁判官忌避を申立てようとしたが、法廷は各裁判官はマッカーサー元帥の任命に基づくとの理由で、この申立てを却下した。公訴に対して判事の忌避を申立てる権利は、米国法廷で審理される全被告が持っている。……

   八、よって原告は、次のことを嘆願する。……

   (2)この訴願をするに至った、米行政・軍両当局の行為と執った処置は〔米国〕憲法違反であり、無効である事を宣言する事》(冨士信夫『私の見た東京裁判()pp.522523.)

 

この訴願は一旦受理された。だが、1220日、最終的に却下された。

 

 審理手続きのおかしさ-――多数派による壟断

 

第三に、審理手続きにおいても東京裁判はおかしなものだった。法廷の定足数は過半数の6名で審理は成立した。全裁判官11名のうち5名が欠席しても審理は継続できた。有罪の認定は出席裁判官の過半数で行われ、刑の量定を含むすべての決定や判決も過半数の賛成で行われた。

こうして行われた判決前の審議では、検察官の主張を全面的に支持する7名の多数派判決と4名の「少数派個別意見」に分かれた。4名はオーストラリアのウェッブ、フランスのベルナール、オランダのレーリンク、インドのパールであった。それゆえ、廣田弘毅は6対5で、その他の東条等6人は7対4で死刑となった。本書は、死刑宣告には全員一致を通例とする近代国家ではあり得ないやり方だとしている。

それゆえ、裁判終了直後、昭和23(1948)1121日付で、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は全弁護団を代表して、マッカーサーに対し、減刑嘆願の覚書を提出し、次のように訴えた。

 

  《 有罪は容疑の余地があるという以上には立証されなかった。

判定は裁判所のそれではなく、一部朋党〔グループ〕のものである。多数派7名の判事は、全般的に別意見をもつたパル、ベルナール両判事を審議及び決定から除外したばかりでなく、部分的に別意見、部分的に同調したローリング[レーリンク]判事および、結果について数点の疑問を持ったが別異意見は記録に止めなかった裁判長サー・ウィリアム・ウェッブまでも除外したことが明らかにされた。……われわれアメリカ人は十一名中六名または七名のものが有罪と判定し、死刑を宣告することを言語道断と考えるし、文明社会もまた、これを言語道断と見るにちがいない。》

(155~156)

 

 裁判長まで排除した7名の多数派が、少数派を排除して判決を下したというのだ。

 

 証拠採用の出鱈目さ

 

第四に、東京裁判は、審理手続きの中でも特に証拠採用が出鱈目であった。その淵源は、ニュルンベルク条例起草のためのロンドン会議にある。ロンドン会議では、アメリカ代表ジャクソンは、事実関係が確かではない噂や証言などの伝聞証拠をも採用する規則を求めた。イギリス代表ジョウィット検事総長も、賛成した。ニュルンベルク条例に倣った極東国際軍事裁判所条例でも、伝聞証拠が採用された。

 

《第13条 証拠

イ 証拠能力 本裁判所は、証拠に関する技術的法則に拘束されない。本裁判所は、迅速且機宜の手続を最大限度に採用し、かつ、適用し、本裁判所において証明力があると認めるいかなる証拠をも採用するものとする。……

ロ 証拠の関連性 本裁判所は、証拠の関連性の有無を判定するため、証拠の提出前、その性質について説明を求めることができる。

二 検察官及び被告人側は証拠を提出することができ、裁判所は、その証拠の採否につき決定する。》      157

 

 この13条の運用によって、以下の問題が発生した。

 1、イにより、通例なら伝聞証拠として却下される材料も受理できる。

 2、ロにより、提出されてくる証拠文書の採否を関連性の有無を口実に恣意的に決定できる。

 3、ロにより、裁判所にとって都合の悪い証拠は、事前検閲の如く、法廷に提出される前に却下できる。       157158

 

つまり、証拠採用は、すべて裁判長の判断次第となった。裁判長の恣意的な判断で、証拠の採否は決していった。阪埜淳吉弁護人の言うところでは、検察団側には、木戸日記、原田・西園寺回顧録など多数の伝聞証拠の提出を許容した。これに対して、弁護側が準備提出しようとした証拠は3分の2が証明力なし、関連性なし、重要性なし等の理由で却下された。

日本人弁護団の副団長であった清瀬一郎弁護人の言うところでは、弁護団側の証拠は8割が却下された。なかでも、「日本政府の声明は、これはセルフ・サービング、つまり自分で自分を弁明するものだといつて初めから却下されてしまうのです」(158)。蒋介石政府や汪兆銘政府との間の合意によってできた声明も、総て却下された。ちなみに、平成7(1995)年には国書刊行会から『東京裁判却下未提出弁護側資料』全八巻が刊行されたが、この中には2306件が所収されている。

ともかく、証拠採用の仕方が余りにも出鱈目であった。それゆえ、19481121日付で、ブレイクニー弁護人がマッカーサーに対し提出した減刑嘆願書の中で、証拠採用の不公正さをも訴えた。だが、前述のように、この減刑嘆願書は却下された。

 

 東京裁判の終了

 

 以上見てきたように、東京裁判は、本当に不公正で出鱈目な手続きで行われた。そして、昭和23(1948)114日から12日にかけて判決文が朗読され、12日午後に各被告に対して判決が言い渡された。25名全員が有罪となり、内東條英機ら7名が死刑判決を受けた。

その後、昭和23(1948)1121日付でマッカーサー宛ての減刑嘆願書が提出されたが却下された。そこで、1129日には、ジョン・ブラナン弁護人らは米国連邦最高裁判所に対して、「人身保護令適用のための訴願」を提出した。米国連邦最高裁判所は、この申し立ての理由を聞くべきと判断し、1216日に口頭弁論を開いた。「しかし、十二月二十日、連邦最高裁は、連合国の軍事法廷について審理する権限をアメリカの法廷は持たないという理由から、『訴願受理の管轄権なし』として訴願を却下してしまう」(163)。その結果、前述のように、1223日、東條英機ら7名が処刑されたのである。

東京裁判は2年6か月、開廷423回、総経費27億円をかけて行なわれた。翌日、GHQは準A級戦犯容疑者19名を、一度も裁判にかけることなく釈放した。そして、昭和24(1949)224日、極東委員会は「国際軍事裁判はこれ以上行わない」と決定した。

 

 連合国に対する「新東京裁判」を

 

 何とも、無法きわまりないことを、裁判とは到底言えないことをアメリカ及び連合国は行なったものである。その無法さ、残虐さは、原爆以上だと言える。連合国は、その無法な行為で日本の指導者7名を、休戦協定締結後に殺したのである。この無法さ、残虐さは、日本人に恐怖を与えた。そして、アノミー日本人を生み出した。だからこそ、「日本国憲法」という自殺「憲法」の押しつけにも抵抗出来なかったのであろう。本書を読み、東京裁判について考察する中で、そのように思わざるを得なかった。

 更に云えば、東京裁判は戦争行為であるから、アメリカなどの連合国は、特にトルーマンは戦時犯罪を犯したといえる。無実の東條らが殺されたのに、原爆投下や毒ガス使用などの連合国の戦時犯罪は裁かれないままである。せめて、日本人は、連合国の責任者に対する「新東京裁判」を観念上においてだけでも執り行うべきではないかと考えた。


  転載自由



佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判』を読んで(1)――問われなかった連合国の戦争責任

   9月中旬から東京裁判の学習に入った。3年前に戦時国際法研究を始める以前には、荒木貞夫の弁護人を務めた菅原裕の『東京裁判の正体』などを読んできた。だが、裁判をめぐる全体像を掴めたと思ったことはなかった。今回、本格的に東京裁判把握の作業に入りだすこととし、その第一歩として佐藤和男監修『世界が裁く東京裁判』(明成社、平成17年改訂版)を読んだ。まだすっきりしないところ、靄のかかったところは多いが、多少とも全体像を把握できたような気がした。そこで、本書を読んで改めて東京裁判についいてわかったこと、初めて知ったことに焦点を合わせて本書について紹介していくことする。

 まずは、例によって目次掲載から始めることとする。

 

目次

序 東京裁判を裁判せよ 初代国際連合大使 加瀬俊一

レーリンク判事の〈東京裁判〉への総括的批判――はしがきに代えて 佐藤和男

第1章 知られざるアメリカ人による〈東京裁判〉批判  

――なぜ日本だけが戦争責任を追及されるのか   

第2章 戦犯裁判はいかに計画されたか――国際法違反の占領政策  72

3章 追及されなかった「連合国の戦争責任」――裁判の名に値しない不公正な法手続

4章 蹂躙された国際法―――国際法学者による「極東国際軍事裁判所条例」批判

5章 《東京裁判》は平和探求に寄与したか――残された禍根と教訓

第6章 戦後政治の原点としての〈東京裁判〉批判――独立国家日本の「もう一つの戦後史」

【付録Ⅰ】誤訳としての「侵略」戦争     

【付録Ⅱ】日本は東京裁判史観により拘束されない――サンフランシスコ平和条約十一条の正しい解釈

 

 3つの課題または作業

 

 本書を読んで改めて考えたのは、日本の指導者が多くはでっちあげの罪で裁かれたのに対し、明確な戦争犯罪を犯したソ連やアメリカなどの連合国側が全く裁かれなかった不公平性のことである。それゆえ、とりあえず粗い形でよいから、連合国側の戦争犯罪をまとめたいと思った。これが第一の課題となる。この課題は第3章と関連している。

 また、不公平性の点と関連するが、東京裁判という形式そのものが国際法違反で本来は成立不能であるということを改めて思った。そこで、東京裁判の手続き的な問題を整理しておきたいと考えた。これが第二の課題となる。この課題は第2章、第4章と関連している。

 更には、東京裁判という形式が成立すると仮定したとしても、日本の指導者は戦争犯罪を果たして犯していたのか、という問題がある。この内容的な問題点を整理しておきたいと思った。これが第三の課題となる。この課題は、第4章と関連している。

 今回は第一の課題を、簡単に果たしていくこととする。最低限、本書で触れられている連合国の戦争犯罪をまとめておきたい。この作業は、主として第3章紹介と関連している。それゆえ、第3章の細かい目次を掲げるとともに、他の章の関連する目次も掲げよう。、

 

レーリンク判事の〈東京裁判〉への総括的批判――はしがきに代えて

 若干の重要問題に関するレーリンク博士の見解

第2章 戦犯裁判はいかに計画されたか――国際法違反の占領政策  

 「国際法という文明は圧殺された」(パール判事)

 ポツダム宣言に示された日本の「条件」

3章 追及されなかった「連合国の戦争責任」――裁判の名に値しない不公正な法手続

 ハンキー元英国内閣官房長官の憂慮  

 日本空爆計画を暴いたトンプソン教授     

 ローガン弁護人の「アメリカの戦争責任」論

ルーズベルトの開戦責任を問うリットルトン英国軍需生産相   

ブレイクニー弁護人の「原爆」発言    

「原爆投下を我々は悔やむ」(『ナッシュビル・グローブ』紙)    

「原爆投下を反省すべきはアメリカだ」(ガザリー元外相)     

原爆投下を懺悔したキリスト教会連邦協議会     

「原爆投下は不必要だった」(アイゼンハワー司令官)  

「無差別爆撃」を非難した中立国スイスの新聞  

リンドバーグ大佐の見た「米軍の残虐行為」    

「米ソによる共同謀議」を批判したプライス法務官

「戦勝国の判事だけによる裁判は公正ではない」(ファーネス弁護人)

一部グループによる判決に抗議したブレイクニー弁護人

       

 一 アメリカは日本に対して「平和に対する罪」を犯した

 

 挑発し続けたのはアメリカ

 

東京裁判との関連で真っ先に挙げるべき連合国の戦争犯罪は、アメリカが日本に対して「侵攻」(aggression)計画を立て、その通りに実行したことである。つまり、「平和に対する罪」を連合国側が犯したのである。もちろん「平和に対する罪」など存在しないが、この罪を認めるならば、連合国側こそ「平和に対する罪」を犯したのである。

しかし、東京裁判では、日本は連合国から次のように批判された。

 

日本は昭和十六年(一九四一)十二月八日、アメリカから挑発を受けていないのに、突如として人々が平和に暮らしていたハワイを攻撃し、多数の戦闘員及び少数の非戦闘員を殺害した、許しがたいアグレッション――「挑発を受けない先制攻撃」を行なった国だと、法廷で激しく批判された。   109

 

傍線部は「侵攻」(aggression)の定義だが、真珠湾攻撃は、果たして「挑発を受けない先制攻撃」であったのか。全く違う。ルーズベルトは盛んに日本に対して挑発行動を仕掛けていた。本書第3章では、次のような挑発行動が列記されている。

 

 11937年、支那事変が始まると、中国に借款、武器売却を行ったこと

 21940年初めには、一個の義勇航空隊を対日抗戦中の重慶政権に派遣し、日本軍と交戦させたこと。

 3、この義勇航空隊=フライング・タイガースは、撃墜する日本機一機につき500ドルの契約で雇われたアメリカ軍の「正規兵」だったこと。

 4、アメリカ参戦前の二年間は、インド・重慶の空路を受け持ち、軍需兵器を輸送したり、日本の海軍航空隊と交戦したりしていたこと。  

 51941723日、日本爆撃計画が大統領と陸海軍長官が承認していたこと。

 (110111)

 

 24は本当かなと思われるが、アメリカが日本側を挑発し続けたことは確かである。特に1939726日の日米通商航海条約の破棄通告は宣戦布告に匹敵する挑発行為である。また、19417月下旬から81日にかけての対日経済封鎖の完成もそうである。それゆえ、木戸幸一被告のローガン弁護人は、1948(昭和23)310日、「最終弁論・自衛戦論において、パリ不戦条約の草案者の一人である国務長官ケロッグが締結当時の一九二八年、経済制裁、経済封鎖を戦争行為と認識していた事実を紹介し、近時戦争を挑発したのは日本に非ずして連合国であることを詳しく論証した」(112)という。

 

 ローガン弁護人曰く「アメリカで考えていたこととは全然逆」

 

ローガン弁護人といえば、最終弁論を終えると帰国するが、全被告に対して次のように述べたという。

 

 《私は最初日本に着いた時には、これはとんでもない事件を引き受けたものとだと、後悔しないでもなかった。しかるにその後種々調査、研究をしているうちに私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であって、日本には二十年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに確信を持つにいたった。したがって起訴事実は、当然全部無実である。しかし、これは弁護人である私が二年半を費し、あらゆる検討を加えてようやくここに到達した結論である。したがって、裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである。》(『東京裁判の正体』P.225.)   11415

 

 傍線部にあるように、ローガン弁護人は、もともとは日本が世界侵略計画を持っていて戦争を仕掛けたと思っていたが、きちんと事実関係を研究すると全く逆であったことを知ったのである。だが、裁判官や検事は、事実関係の研究をまだきちんとできないであろうと推測するのである。今に至るまで、多くの日本人は、米国にいた時のローガン弁護人の段階でとどまっているわけである。いや、日本人の戦争認識は退化し続けたと捉えるべきかもしれない。

 

アメリカはドイツに対して「平和に対する罪」を犯した

 

アメリカは日本を挑発し続けただけではない。軍事的側面に限れば、ドイツに対してはもっと明確に挑発し続けていた。194194日にはグリーア号事件が、1017日にはカーニ号事件が、1130日には駆逐艦ゼームス号が撃沈され、乗員1115名が戦死する事件が起きた。だが、アメリカ軍の中に憤激の声が上がらなかった。当然である。すべて、米軍側が挑発して起きた事件だったからである。本書は次のように述べている。

 

不審に思ったアメリカ上院海軍問題委員会は質問状を海軍作戦部長HR・スタークに発し、事件が米軍の挑発によって起こされたことを突き止めた。ルーズベルト大統領は第二次世界大戦に参戦したいがために、ドイツを挑発し攻撃まで仕掛けていたのである。こうした経緯から、自国の対ドイツ参戦を正当化するためにもアメリカはドイツの戦争を不法だと決めつけなければならなかったのだ。    81頁

 

傍線部にあるように、アメリカこそがドイツに侵攻戦争を仕掛けており、連合国側が言う「平和に対する罪」を犯していた。だからこそ、自分たちの不当性を糊塗するためにこそ、ドイツに「平和に対する罪」を着せる必要があったのである。

 

二 原爆投下によって、アメリカは「人道に対する罪」を犯した

 

原爆を投下したアメリカ人に日本を裁く資格はあるのか

 

連合国が犯した第二の罪は、原爆投下による「人道に対する罪」である。もちろん、これも事後法であり存在しなかった罪であるが、この罪を認めるならば、アメリカは明確に「人道に対する罪」を犯したといえる。

 本書によれば、マサチューセッツ州立大学のリチャード・マイニア『勝者の裁き』(1971)には、次のような言葉がある。

 

 《アメリカも「人道に対する罪」を犯した疑いがきわめて強かった。極東国際軍事裁判所条例は「人道に対する罪」を「一般市民に対する非人道的行為」と定義した。この定義は、広島や長崎に対する原爆投下にも適用されないのであろうか》(p.122.)   121

 

 「一般市民に対する非人道的行為」が「人道に対する罪」の定義であるならば、広島・長崎への原爆投下は当然に「人道に対する罪」に当てはまることになろう。

 同様の考え方は、東京裁判の時に既に存在した。1946(昭和21)514日の法廷で、ベンブルース・ブレイクニー弁護人は、原爆投下という「一般市民に対する非人道的行為」を行った国の人たちは、日本人を裁く資格を持たないのではないかということを、次のように述べた。

 

 《何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がゐる! その者達が裁いているのだ!(『東京裁判 日本の弁明』p.24.)     122

 

 この部分は、英文の速記録には載せられているが、「以下通訳なし」と書かれていて、法廷では日本語に通訳されなかったようだ。インドのパール判事も、ブレイクニー弁護人の言葉に共鳴し、広島・長崎への原爆使用をナチスによるユダヤ人虐殺と同列に見なした。

 

 日本政府、原爆投下について対米抗議文提出

 

 日本政府も、長崎への原爆投下の翌日、即ち810日、原爆投下について対米抗議文を提出した。

 

 《……米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別性かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり。米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり、帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り……。而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す。》(「朝日新聞」昭和二十年八月十一日)  128129

 

 上記声明のように、毒ガスやダムダム弾などの非人道的兵器の使用は禁止されていた。毒ガスなどの使用は明確に通例の戦争犯罪に該当した。したがって、原爆投下は、毒ガスなどを遥かに超える「無差別性惨虐性」をもつから、間違いなく戦争犯罪に該当する。それゆえ、原爆投下を行った者、いやそれ以上に投下を命令した者は戦争犯罪人として処刑されるべきものとなる。

 いや、そればかりではない。原爆投下は「人類文化に対する新たなる罪悪」であると日本政府はアメリカを糾弾するのである。

 

三 無差別爆撃

 

 連合国が犯した第三の罪は、日本政府の声明にも出てきたように、東京大空襲を代表とする日本の都市に対する無差別爆撃である。ドイツのドレスデン爆撃も無差別爆撃である。

軍事目標以外も標的にして行う都市爆撃は完全に戦時国際法違反であり、通例の戦争犯罪にあてはまる。本書によれば、無差別爆撃は、1945310日の東京大空襲を機に本格化し、広島、長崎を含む66の都市が破壊され、40万人以上の非戦闘員が殺されたという。

 しかも、真珠湾攻撃の少し前から、「マーシャル陸軍参謀総長は、『日本の人口密集都市の木と紙でできた家屋を焼き払う、無差別焼夷弾攻撃』を想定した計画を立てるように部下に命じ」(140)ていたという。

 本書によれば、米軍による日本都市爆撃は、スイスに異常な反響を巻き起こしたという。『ガゼット・ローザンヌ』というスイスの新聞は、86日の社説で次のように述べた。

 

 米国の日本都市無差別爆撃は、ドイツのブーチェンワルド・マヌーゼン収容所の残虐にも比較すべきものであり、スイスは米国のこの暴挙の停止を勧告すべきだ。……爆撃を予告してゐる都市は必ずしも軍需生産の中心地ではない、ブーチェンワルド・マヌーゼン収容所の閉鎖と共に欧州における「残虐時代」は過ぎた、しかし木造建築の多い日本の都市で特に多数の婦女子が爆撃によつて生命を奪はれてゐることを我々は忘却する権利はないはすだ。中立国としてのスイスは現在の問題を正確に理解することは困難であるが、赤十字の創設国としてこの問題を十分に考経て見る義務があるはずである。》(『朝日新聞』昭和二十年八月九日)  141

 

 スイスの新聞でも、日本の都市に対する無差別爆撃は、ユダヤ人虐殺と同列視されていることに注目されたい。

 

四 リンドバーグ大佐の見た「米軍の残虐行為」 

               

 連合国による第四の戦争犯罪は、捕虜虐殺、戦死者の死体損壊などの通例の戦争犯罪である。本書では、参考資料として、本ブログで紹介してきた『リンドバーグ第二次大戦日記』や会田雄次『アーロン収容所』、本田忠尚『マレー捕虜記』、ジョン・ダワー『人種偏見』とぃったものが挙げられている。

 本田忠尚『マレー捕虜記』によれば、マレー、ビルマ、シンガポール地区の強制労働で4千名以上が死亡したという。捕虜に強制労働させることも、明確な戦時犯罪である。4千名の死亡という話は全く知らなかったので、記しておくことにする。

 

 トータルでは日本軍による捕虜待遇は良好――足立純夫『現代戦争法規論』

 

 本書では主に捕虜の扱い方について記しているが、ここで、米軍などの日本兵捕虜に対する扱い方と比較するため、日本軍の捕虜待遇について記している。

                 

 防衛大学校教授の足立純夫『現代戦争法規論』によれば、我が国は開戦と同時に捕虜収容所の開設に着手し、昭和十八年(一九四三年)末には、日本地域及び占領地域に合計十五カ所の収容所が設置され、約三十万人を収容していた。また、その待遇が決して悪くはなかったことを赤十字国際委員会や連合国の一部も認めていた

 例えば一九四二年十一月二十四日付の英紙デイリー・メールは「日本軍は捕虜を優遇」の大見出しの下にイギリス捕虜の生活を伝え、イギリス陸軍省は一九四三年一月六日に捕虜に関する詳細な発表を行ない、「その生活状態は満足すべきものである」と述べた。更に一九四三年十月十日、ロンドンで開催された被抑留者親族会議において、万国赤十字社極東捕虜局のキング委員は「日本の捕虜収容所では未だ曽て虐待行為は見られず、捕虜は十分に待遇されている」と報告している。これらの事実は、日本軍に捕虜虐待の組織的企図があったわけではないことを示している。  145

 

日本軍の場合は、アメリカ軍のように捕虜を取らない方針をとらず、概して捕虜に対する待遇はよかったようである。アメリカ軍の場合は、捕虜を取らない方針に基づき投降した日本兵を組織的に虐殺していった。対して日本軍の場合は、捕虜虐待があったとしても組織的なものではなかったのである。

にもかかわらず、アメリカ軍による日本人捕虜の虐殺は問題にされず、多数の日本兵が捕虜虐待などの罪で処刑されていった。本書によれば、約25千人が逮捕・拘禁され、5700人が起訴され、1千余名が死刑判決を受けたという。その中には冤罪も多かったと伝えられる。

 

五 米ソの共同謀議による千島等侵略

 

 連合国による第五の戦争犯罪は、ソ連による千島等の侵略である。

 

 キーナン検事が中心になって起草した「起訴状」を読んで最も奇異に感じる部分は、日本が「ソ連」に対する侵攻戦争を計画・実行した罪で問われていることである。 146

 

 しかし、日ソ中立条約は有効であったし、ソ連の参戦は完全に国際法に違反する行為であった。明らかに、侵攻戦争を行ったのはソ連の側である。しかも、ソ連は、連合国の提案に基づき参戦した。19452月のヤルタ会談で、アメリカはソ連を戦争に引き込んだ。それゆえ、ソ連による満州、樺太、千島への侵攻は、米ソの共同謀議により行われたといえるのである。

 

 連合国が日本に対して犯した戦争犯罪は、ここまで見てきたもの以外に多数存在するが、とりあえず、本書が取り上げている戦争犯罪を確認することでとどめておきたい。いずれ、最低限、日本に対して連合国が行った戦時犯罪のうち主なものをすべてまとめる作業を行いたいと考えている。

 

 転載自由

 

 

『敗走千里』と『督戦隊』を読む――督戦隊とはどういうものか

 

 

 恋愛小説として

 

 最近、陳登元『敗走千里』(ハート出版、平成29)と別院一郎『督戦隊』(同、令和元年)を読んだ。ともに復刻版であり、底本は昭和13年に教材社から出されたものである。ともに復刻に際して、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めたり、軍における階級を日本軍のものに変換して表記したりするなどしている。

 二著とも日中戦争(支那事変)、特に1937年の上海戦と太原作戦を背景にして書かれた戦争文学である。読み始めた動機は督戦隊や慰労隊などの詳細を知ることであったが、一種の恋愛小説としても面白く読むことができた。命のやり取りと恋愛が主軸なので、次には何が起きるのか冷や冷やしながら一挙に読んでしまった。

ともに、一人の女性を頂点とした三角関係の物語である。いや、四角関係の物語ともいえる。『敗走千里』でも『督戦隊』でも、一応は主人公は一人の男性兵士とされているが、特に『督戦隊』では、実際上の主人公は三角関係の頂点に位置する女性である。いや、『敗走千里』でも女性が主人公と読めないこともない。

二人の女主人公は対照的である。『敗走千里』の李芙蓉は感情・感性に生きている。『督戦隊』の周秀蘭は観念・倫理に生きている。李芙蓉は悪党ではないが一種の悪女である。周秀蘭は自己の倫理に忠実な、敢えて言えば「聖女」である。

この対比は正鵠を射ていないどころかかなりずれているのかもしれないが、二人の女主人公には共通点がある。共に物語の中で、最も「凛」とした存在であることだ。李芙蓉は気風がいいし行動力があり、勘がいい。周秀蘭は意志の力が凄まじい。ともに、それぞれの物語の中で際立ったキャラクターになっている。

 

恋愛小説としては、以上のようなことを思った。だが、戦争のもろもろについて知るための戦争文学としても、いろいろなことを思った。以下、二つの著作を読んで改めて知ったこと、思ったことなどを記していきたい。

 

賭博、斥候、掠奪

 

『敗走千里』を読みだして真っ先にぶつかったのが、熟練の下士官である洪傑に関する描写である。洪傑は匪賊あがりとの評判を持つ分隊長だが、次のように記されている。

 

博打の天才で、滴々給料が渡れば、塹壕の中であろうがどこであろうが所構わず、彼を中心にして博打が開帳される。そして、それに加わった者は、一人残らず彼のために巻き上げられてしまう。何かインチキをやるらしいことは、この頃になって誰も感づいているのであるが、しかしまた誰も、彼が如何なるインチキをやるのか、その手元を見届けた者はいない。それで、そのグループの中の誰か一人が、

「俺はやらない」と言って博打に加わるのを拒んだりすると、あ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      とできっとえらい返法をされる。

「おい、歩哨の交代だ、貴様出ろ!

 そう言って、ビュンビュン弾丸の飛んでくるところへ摘まみ出される。 15~16

 

 危険を逃れるために斥候を断ろうと思えば、金を握らせることが一番だ。だが、給料などすぐに消えてしまう。いや給料が入ってこない時もあるから、掠奪が必須だ。略奪を行うには、斥候に出た時がチャンスだ。だから、戦争がまだ激しくなかったころには、古い兵隊たちは斥候に志願したという。

掠奪は、あらゆる場面で普通に出てくる。敗残兵として逃走した時も、勝利者として町を占領した時も必ず略奪を行う。時計や指輪、銀貨などの金目の物が一番狙われる。しかし、戦争が激しくなるにつれ、あるいは激しくならなくても、食料や衣類など日用品が略奪される。衣類といえば、中国兵は民間人の服を盗んで持ち運び、いつでも兵隊服を民間人の服に着かえて逃走できるように準備している。その様子は、『敗走千里』                                                   にも描かれている。

                                                                                                                                                                                                         

シャベル、スコップ、塹壕掘り、銃の乱射、逃走

 

『敗走千里』も『督戦隊』も、もし映画化するとすれば、薄暗い塹壕の中が主要な舞台となろう。兵士たちの主要な道具は、銃や手榴弾というよりもシャベルやスコップである。シャベルやスコップが重要なのは、阿羅健一『日中戦争は中国の侵略で始まった』(梧空出版、2016)で描かれた日本兵の場合と同じだ。

いや、時にはツルハシのこともある。塹壕づくりが一番の仕事のような感じである。怖さ故に銃を撃ち続ける場面も数多いが、一番読者の印象に残る場面は、走って走って逃げる場面だ。戦闘も夜が多いから、全体に薄暗い場面となろう。この薄暗い場面に、兵士、下士官、将校の三者に慰労隊の女たちが活躍する構図だ。                                                                                            

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

慰労隊

 

慰労隊とは何か。二つの小説を読んでもよくわからない。志願か強制か分からないが、建前的には、一番の仕事は看護婦の仕事だ。だが、看護婦教育がほとんど行われておらず、『督戦隊』で出てくる慰労隊の女性たちは、包帯も満足に巻けない人が大部分である。実態は、特に『敗走千里』では、将校や下士官たちの愛人といったところである。ただし、慰労隊の女性を求めて(襲わんとして)兵士たちがうろつく場面が、当たり前のこととして出てくる。

ところで、田中秀雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』(草思社、2014)を読むと、多数の中国人女性が中国中央正規軍の性奴隷状態に置かれ、最後に虐殺されてしまう話が出てくる。この話と慰労隊の存在とは、どのようにつながるのであろうか。

                                                                                     

督戦隊       

 

日中戦争史の学習にとって最も参考になったのは、督戦隊に関する記述だ。督戦隊とは、味方に対して銃を撃ち続けて敵方に向かって攻撃を行わせること、即ち督戦を任務とした部隊である。その組織上の形態は二つの小説を読んでも良くわからなかったが、機能の仕方、実際の働き方はよくわかった。

督戦隊は、『敗走千里』でも『督戦隊』でも出てくる。より出てくるのは、題名からもわかるように、『督戦隊』の方である。ここでは、最初に山西軍(閻錫山の軍)3万ないし4万ほどが日本軍に砲撃されて、主人公たちが所属する第13大隊の陣地に向かって逃げてくる。第13大隊(一応、国民党中央軍に属するのか?)は、急遽、中央の命令により、山西軍の敗走を食い止める督戦の任務に就くことになる。機関銃、迫撃砲と小銃で逃げてくる山西軍を攻撃し、死人の山を築く。

 

屍の山は見る見る高くなっていく。その屍の山で、彼らの敗走はやっと停まった。徐中尉は目測でそこまでの距離を測った。

約五百メートル……。

彼は大隊長のところへ走って行った。

「敗走兵は約五百メートルのところで停止しました。同時にそこで散開、追撃して来る東洋軍(日本軍のこと引用者)に対し、防御の工事を始めたようであります」

 大隊長は苦い顔をしてそれを聞いていた。そして、

「それじゃ、あまり近すぎる……」と言った。  (中略)

「我々が第八路軍に対する感情を思い起こしてみるがいい。あいつらは……表面は友軍だ。

同じ中国の軍隊で、同じ抗日戦線に立つ友軍だ。だが、あいつらはかつて、我々の退路を遮断して我々を射撃した。我々を攻撃し、屍山血河を現出した……。我々は、あれらに対して友軍の感情を持っているか?」          134135

 

 13大隊が第八路軍即ち共産軍を仇敵のように思っていると同じく、山西軍は当然に第13大隊を仇敵と思っているであろう。しかも、山西軍は、数において圧倒的に第13大隊を上回っているのだ。そんな敵をわずか500メートルの距離に置いておくことは極めて危険なことである。大隊長は、その危険のことを言っているのだ。

 

 徴発隊       

 

 日本軍の攻撃もやみ、しばらく小康状態が続くかと思われた。糧食が不足するから、全部隊の3分の1が糧食の徴発隊として働いた。徴発隊については、次のように記される。

 

 徴発隊は毎日のように八方に向かって繰り出された。が、この徴発も、この頃のようにこうした辺境に追い込まれてしまっては、なかなか容易のことではなかった。しかもこの狭い区域の中でに、お互いに仇敵視している各派別の軍隊が混交雑居しているのである。至るところで彼らは衝突し、銃火を交えるような騒ぎを演じていた。その上、徴発される農民たちの怨嗟憎悪というものが並大抵ではなかった。一人二人でそこらをまごまごしていると、時によると不意に後ろから棍棒でどやしつけられ、死骸はたちまちどこか眼に見えないところに処分されてしまう。事実、そんなことがたびたびあったのだった。

 この農民たちも、時に飢饉の年にでもなると、たちまち鋤鍬を槍や刀、鉄砲に代え、そこらを掠奪し回る匪賊と化してしまう類だった。         136137

 

     山西軍と第13大隊、それに農民たち、三者の間に憎悪を含んだ緊張関係があったのである。

 

 敗走軍に飲み込まれた督戦隊

 

 そして、日にちが経った。日本軍が大規模な撤退を始めた()から追撃しなければならなくなった。その追撃軍に対する督戦が、第13軍に命じられた。おかしなことに、追撃軍である第一線部隊と督戦隊である第13大隊の双方から、別々に二種類の斥候が出される。

 おかしなことに、優勢であったはずの中国軍の第一線部隊は日本軍に敗れ、敗走して来る。敗走して来る友軍に対して、第13大隊は督戦隊の任務を果たさなければならない。

 

「撃て!」

機関銃は咆哮を始めた。

カタ、カタ、カタ、カタ……

いつもながら、冷たい、表情のない連続音だ。これこそ鉄の意志の、好個の権化〔まさに象徴〕だ。

無論、小銃も一斉に火を吐き始めた。銃口から走る火がよく見える。それだけ暗くなって来たのである。

敗走部隊は、敵味方の銃砲火の挟撃に遭って、二進も三進もいかぬ立ち往生をしてしまった。一連の土塀のごとく、黒々とした一線を麦畑の中に画して、瞬時、前すべきか、後ろすべきかを迷っているようだった。独り立ちする力のない、支え棒によって立っている塀というものは、多くの場合、支える力の弱い方へ向かって、つまり圧力の弱い方向へ向かって倒れるものである。東洋軍の圧力が強いか、督戦隊の圧力が強いか……。麦畑の中の土塀は、俄然、砲火の中から督戦隊へ向かってなだれ込んで来た(中略)尻尾を振って這い寄って来る痩せ犬ではなく、牙をむいて跳びかかって来る狼となって、なだれ込んで来たのである。         209

 

ここから、本格的に、同じ中国軍同士の撃ち合いが始まる。敗走部隊の方が数も圧倒的に多く、勢いがあり、督戦隊を飲み込んでしまう。

 

 いかに厳罰をもって臨まれても、「勢い」というものには勝てなかった。目前に潮のような敗走部隊を見ては、どうしようもなかった。われがちに、恐怖の喚声を上げて、後方への逃げ道である交通壕に飛び込んだ。第一線からの先頭が督戦隊の後尾に続いた。両部隊は揉みに揉んで、狭い交通壕から丘陵地の背面にひらけた麦畑に出た。両部隊の間には、もう殺戮はなかった。暗さが幸いして両者の区別が判然としなかったし、お互いに逃げるのに夢中になって、敵か味方か、詮議だてしている余裕がないのだった。ことに敵の砲弾は、逃げる後から後から追って来て猛烈な勢いで炸裂するし、一尺遅れれば一尺だけ死の危険に曝されるという、冗談や笑いごとではない真剣の立場に立たされていた。

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混然一体となった敗走部隊と督戦隊(13大隊)は、三時間ほど、約20キロ走って町まで逃げ延びた。町を占拠していたのは共産軍の一部だった。迫撃砲も機関銃も逃げるとき置いてきてしまったので、軽機関銃と小銃で突撃を敢行し、町を奪取した。

 

分裂した中国軍

 

以上のように、『督戦隊』では、少なくとも日本軍、共産軍、山西軍(敗走軍)、第13大隊という4者の敵対関係が描かれている。中国軍全体は、そもそも地域的対立や思想的対立から分断されている。だが、それ以上に、督戦隊という酷薄な制度が中国軍を分断分裂させたのではないかと感じた。味方同士で殺しあっていたのでは、中国軍としての連帯感は生まれようがないからである。

私はずっと不思議であった。おおよそ、日本軍は10倍の数の中国軍を相手にして勝利し続けたと捉えられる。匪賊軍や軍閥軍を相手にしていた当時ならばともかく、近代化された国民政府軍の時代になっても、そうである。近代兵器を持ち、ドイツやソ連から武器供与され、彼らによる訓練を受けた中国軍がやはり自分たちの10分の1ぐらいの日本軍と良くて五分以下でしか戦えなかったことが不思議であった。

だが、  『督戦隊』を読んで、中国軍が負け続けた理由がわかったような気がした。督戦隊の存在などの理由から、いくつにも分断され、互いに仇敵同士のような感情を持っていた中国軍が、各部隊は強くなっていたとしても、総体として強くなれるわけがなかったのである。

 

人民と中国軍の分断

 

中国軍の弱さは、人民の支持を受けていないことにも由来する。かえって日本軍の方が支持を得ていることが多い。中国軍が町から消えて日本軍が入ってくると、却って中国の民衆は歓迎したとはよく伝えられることであるが、『督戦隊』を読んでも、そのことが描かれている。

13軍に入っていた主人公(方家然)と第13大隊に付いていた慰労隊に属していた女主人公(周秀蘭)は、女主人公の住んでいた町に戻るが、その町は日本軍に占領されていた。日本占領下の町の様子が次のように描かれている。

 兵隊がこれだけ町にいるのに、全く不思議のことだ。品物を誰も隠そうとしない。それどころか、倉庫の底で腐らせかかったような品物で持ち出して来て、並べている。日軍の兵士というものは、掠奪をやらないのであろうか……。買い物をするのに金を払うのだろうか……

しかも、さらに不思議なことは、方家然の長い軍隊生活の間にもかつて見たことのない現象が、日軍兵士たちと、町の住民たちとの間に行われていることだった。彼らは、お互いに言葉は通じている様子もないのに、手ぶり身ぶりで、いともにこやかにお互いの意志を疎通させているし、ことに小童の輩に至っては、髭もじゃの恐ろしい顔をした日兵の手に両方からぶら下がって、何かわけの分からないことをしゃべるのか唄うのかしている。中には、その髭もじゃの兵士の手から何かもらって、むしゃむしゃ食べているものさえある。  235

 

中国軍の兵士たちは、共産軍であれ、蒋介石直系の軍であれ、地方軍閥を基にした軍であれ、金も払わないし、掠奪が当たり前である。人民とにこやかに交歓する中国軍などほとんど存在しない。それゆえ、上記光景を見て方家然は驚いてしまうのである。

 

以上、『敗走千里』と『督戦隊』の紹介を行ってきた。二つの著作を読んで中国軍の在り方が、そして上海戦を中心にした日中戦争の在り方が、よりイメージ的に分かった気がする。興味を感じられた方に二著をお勧めするものである。  

 

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